2025年11月20日木曜日

2025年11月20日の聖句

神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2:20)

今日の二つの御言葉は、私たちの命の起源と目的を語ります。そしてどちらも、神を信じる者としてこの命をどう捉えるのか、ということであると思います。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」この御言葉は、私たちの呼吸の起源に注目します。私たちは土の塵から造られたもの。土の塊です。ただの土くれに過ぎない私たちがどうして生きていて、どうして土の塊が生きをしているのかというと、それは神がご自分の命の息を人の鼻に吹き入れてくださったからだ、と言うのです。なんとすばらしい人間観であろうかと思います!私たちの生きている理由、私たちの命の根源は、神の命の息にある!すばらしい御言葉です。神さまの息が鼻に吹き入れられるということは、それだけ神さまが間近におられて、息が吹きかかるほどすぐ目の前にいてくださって、フーッと直接吹き入れてくださった。そういうことではないでしょうか。神さまが私の前にいてくださるということこそが私の命の「起源」なのです。
「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」神が私たちに関わってくださるといいうときに、その関わりの究極の形こそ、神の子イエスのご自身を献げる愛です。このお方が命を献げて神に従い、私を愛し抜いてくださった。そのお方が今や私の中に生きてくださり、私もこのお方によって生きる者としていただいた。そこに、今私が生きている理由がある。神の子の真実によって私は今生かされている。そのように言っています。パウロの筆は私の命の「これから」に向かっています。私たちは神の子がご自身の真実によって命を献げてくださったというその一点によって生かされている。これからの命のを神の御子に献げて生きる。そこに私の命の「目的」があるのです。

2025年11月20日の聖句

神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7) 私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2:20) 今日の二つの御言葉は、私たちの命の起源と目的...