ご自身に忠実なる者たちの命を守られる方は、逆らう者たちの手から彼らを助け出してくださる。(詩編97:10)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)
今日の新約の御言葉には「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。しかしこの時の教会の状況を考えると、必ずしもすぐに「平和」と言えるようなものではなかったのではないか、と思います。
このとき、サウロというユダヤ人がいました。彼は非常に熱心なファリサイ派で、キリストの教会を激しく迫害していた。その人がダマスコに向かう途上、不思議な仕方で主イエスと出会い、回心しました。サウロは新しくなった。
しかし、教会にはそんなサウロの言い分を信じられないと思う人も少なくありませんでした。当然だと思います。ついこの前まで自分たちを迫害し、捕らえ、縛りあげて連行した人物です。ステファノという人が殉教したときにもその場に居合わせた人間です。イエスと出会ったと言われても「嘘かもしれない、これは罠だ」と思われても仕方がなかったと思います。教会の中にはサウロを殺そうと狙う人もいました。そういう状況を報告し、続けて今日の御言葉に至るのです。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
教会の平和は、私たちの人間としての仲の良さや気の合う・合わないには依存しません。表面上平和に見えるかどうかが決定的な意味を持つのではない。そういう意味では甚だ不完全な人間集団に、しかし聖霊なる神様が働きかけてくださり、主を畏れて歩み、神の慰めを共に頂くところに平和が生まれるのです。最初の教会は痛みを抱えながらも、そういう神さまの御業に与り、それに生かされました。そんな教会で、やがてサウロも一人の使徒としてキリストに仕え、宣教のために用いられたのです。神さまの御業に開かれ、虚心坦懐に聖霊を待ち望む教会がここにあります。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)
今日の新約の御言葉には「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。しかしこの時の教会の状況を考えると、必ずしもすぐに「平和」と言えるようなものではなかったのではないか、と思います。
このとき、サウロというユダヤ人がいました。彼は非常に熱心なファリサイ派で、キリストの教会を激しく迫害していた。その人がダマスコに向かう途上、不思議な仕方で主イエスと出会い、回心しました。サウロは新しくなった。
しかし、教会にはそんなサウロの言い分を信じられないと思う人も少なくありませんでした。当然だと思います。ついこの前まで自分たちを迫害し、捕らえ、縛りあげて連行した人物です。ステファノという人が殉教したときにもその場に居合わせた人間です。イエスと出会ったと言われても「嘘かもしれない、これは罠だ」と思われても仕方がなかったと思います。教会の中にはサウロを殺そうと狙う人もいました。そういう状況を報告し、続けて今日の御言葉に至るのです。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
教会の平和は、私たちの人間としての仲の良さや気の合う・合わないには依存しません。表面上平和に見えるかどうかが決定的な意味を持つのではない。そういう意味では甚だ不完全な人間集団に、しかし聖霊なる神様が働きかけてくださり、主を畏れて歩み、神の慰めを共に頂くところに平和が生まれるのです。最初の教会は痛みを抱えながらも、そういう神さまの御業に与り、それに生かされました。そんな教会で、やがてサウロも一人の使徒としてキリストに仕え、宣教のために用いられたのです。神さまの御業に開かれ、虚心坦懐に聖霊を待ち望む教会がここにあります。