私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。(詩編38:5)
(その犯罪人は)そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ22:42~43)
今日の旧約で「咎」と翻訳されている言葉があります。原語ではアーヴォーンという単語です。これはとても意味が広い言葉です。犯してしまった「罪」、あるいはその「責任」、そして罪の結果生じる「罰」までを含む意味を持っています。その意味では、日本語の「罪」とか「罰」といった言葉とは語感が違います。しかし、私たちの実感としてはよく分かる、と思います。何らかの過ちを犯してしまったとき、その責任に苦しみ、あるいは自分がしでかしてしまったことから生まれた結果に自分も苦しみ、周りの人も苦しめている。自分ではどうやっても解決できなくなってしまう・・・。そのすべてがアーヴォーンです。私たちにも身に覚えがあることではないでしょうか。
「私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。」
私のアーヴォーンはもはや頭を越えてしまっている。自分で背負うことがもうできない。それはあまりに重くて私を押し潰してしまいます。
今日の新約は、主イエスが十字架にかけられた時のことを伝えています。両隣に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。その内の一人が主に言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」すると主はこの人に言われました。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
自分のしてきたアーヴォーンを負いきることができず、最後は十字架にかかって責任を取らねばならない。いや、それでもその重荷のすべてを負えたことにはならない。この犯罪人も、私たちも、自分の頭を越えるアーヴォーンに押し潰されてしまいます。ところが主はそんな私たちに言ってくださるのです。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」私たちは、主が私を思い起こしてくださること、私を憐れんでくださることにこそ望みがあります。私は自分の責任を自分で背負いきることすらできない愚か者です。私のアーヴォーンは神に赦して頂くより他ない。キリストの憐れみにおすがりするしかない。主よ、私を思い起こしてください。それが私たちの祈りですし、主はこの祈りに既に応えてくださっているのです。
(その犯罪人は)そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ22:42~43)
今日の旧約で「咎」と翻訳されている言葉があります。原語ではアーヴォーンという単語です。これはとても意味が広い言葉です。犯してしまった「罪」、あるいはその「責任」、そして罪の結果生じる「罰」までを含む意味を持っています。その意味では、日本語の「罪」とか「罰」といった言葉とは語感が違います。しかし、私たちの実感としてはよく分かる、と思います。何らかの過ちを犯してしまったとき、その責任に苦しみ、あるいは自分がしでかしてしまったことから生まれた結果に自分も苦しみ、周りの人も苦しめている。自分ではどうやっても解決できなくなってしまう・・・。そのすべてがアーヴォーンです。私たちにも身に覚えがあることではないでしょうか。
「私の咎が頭を越えるほどになり重荷となって担いきれません。」
私のアーヴォーンはもはや頭を越えてしまっている。自分で背負うことがもうできない。それはあまりに重くて私を押し潰してしまいます。
今日の新約は、主イエスが十字架にかけられた時のことを伝えています。両隣に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。その内の一人が主に言ったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」すると主はこの人に言われました。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」
自分のしてきたアーヴォーンを負いきることができず、最後は十字架にかかって責任を取らねばならない。いや、それでもその重荷のすべてを負えたことにはならない。この犯罪人も、私たちも、自分の頭を越えるアーヴォーンに押し潰されてしまいます。ところが主はそんな私たちに言ってくださるのです。「よくよく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」私たちは、主が私を思い起こしてくださること、私を憐れんでくださることにこそ望みがあります。私は自分の責任を自分で背負いきることすらできない愚か者です。私のアーヴォーンは神に赦して頂くより他ない。キリストの憐れみにおすがりするしかない。主よ、私を思い起こしてください。それが私たちの祈りですし、主はこの祈りに既に応えてくださっているのです。