神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。(ヨブ9:10)
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。(2コリント4:14)
今日の新約の御言葉ですが、少し細かく見ていくとこのようなことになるのではないか、と思います。
「主イエスを復活させた方」、つまり父なる神が「イエスと共に私たちをも復活させ」てくださった。この神が「あなたがたと共に」、私たちを「御前に立たせてくださる」。私はそのことを知っているし、信じている。つまり、後半の文章には「私たちを」という目的語が省略されていると考えるのが自然であると思うのです。
私がこの御言葉を読んで感じたのは、こういうことです。即ち、復活というと、一見すると極めて個人的な事柄に思えます。「私の肉体が復活する」というのは他人ではなく「この私」の話ですし、この体は他の人のものではなく私のものです。しかし、ここを読むと、あまり個人主義的な響きがないように思うのです。神は私たちを主イエスと共に復活させ、私たちをあなたがたと共に御前に立たせてくださる。復活は、主イエスと共にあることであり、他の信仰の仲間と共にあることでもあります。個人的に神の前に立つのではない。復活した者たちの共同体がある。その先頭にはイエスがおられ、私たちは神の前に共に立ちます。
今日の旧約では「神は偉大なことをなさり、究め難く、その驚くべき業は数えきれない」と言っています。このような賛美はキリスト者の共同体が献げる賛美です。私たちは独りぼっちで神を礼拝するのではない。共に神をたたえる共同体の一員として神の前にいるのです。新しい共同体の建設。そこに神の偉大な御業があるのではないでしょうか。
その驚くべき業は数えきれない。(ヨブ9:10)
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。(2コリント4:14)
今日の新約の御言葉ですが、少し細かく見ていくとこのようなことになるのではないか、と思います。
「主イエスを復活させた方」、つまり父なる神が「イエスと共に私たちをも復活させ」てくださった。この神が「あなたがたと共に」、私たちを「御前に立たせてくださる」。私はそのことを知っているし、信じている。つまり、後半の文章には「私たちを」という目的語が省略されていると考えるのが自然であると思うのです。
私がこの御言葉を読んで感じたのは、こういうことです。即ち、復活というと、一見すると極めて個人的な事柄に思えます。「私の肉体が復活する」というのは他人ではなく「この私」の話ですし、この体は他の人のものではなく私のものです。しかし、ここを読むと、あまり個人主義的な響きがないように思うのです。神は私たちを主イエスと共に復活させ、私たちをあなたがたと共に御前に立たせてくださる。復活は、主イエスと共にあることであり、他の信仰の仲間と共にあることでもあります。個人的に神の前に立つのではない。復活した者たちの共同体がある。その先頭にはイエスがおられ、私たちは神の前に共に立ちます。
今日の旧約では「神は偉大なことをなさり、究め難く、その驚くべき業は数えきれない」と言っています。このような賛美はキリスト者の共同体が献げる賛美です。私たちは独りぼっちで神を礼拝するのではない。共に神をたたえる共同体の一員として神の前にいるのです。新しい共同体の建設。そこに神の偉大な御業があるのではないでしょうか。