2022年4月30日土曜日

2022年4月30日の聖句

主はモーセに言われた。「あなたは私の目に恵みを見出した、私は名指しであなたを選んだ。」(出エジプト記33:17)
イエスは言う:私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(ヨハネ10:14)

「あなたは私の目に恵みを見出した。」素敵な御言葉です。モーセは、主の御目に恵みを見出した。主なる神さまと見つめ合い、その目に自身への深い恵みの光を見いだした。もちろん、神さまは私たちの目には見えない方ですから、「神さまの目」というのは比喩表現であるに違いありません。しかし、神さまと見つめ合うほどに親しく祈り、神さまを慕い、神さまに自分の目を注ぐようにして思いも心も集中する。そういうモーセの信仰生活、祈りの生活が見えてくるような御言葉です。神さまは、そのようにして神さまを愛するモーセを喜び、恵みに満ちた視線をモーセに投げかけていたのでしょう。
主イエスは言われます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」主イエスも、やはり、主ご自身が私たちのことを知っていてくださり、主の羊である私たちも羊飼いイエスを知っている、と言われます。羊飼いである方と羊である私たちとの本当に親しく、愛に満ちた関係。羊飼いは、羊を愛し、見つめ、いつも守っていてくださることでしょう。羊もその羊飼いを愛し、その声を聞き分け、この羊飼いに導かれる平安と、この羊飼いが与える安息を喜んでいる。そういう愛に満ちた交わりの関係が、キリストと私たちの関係だと主イエスは言われます。
このようにして私たちが毎日過ごしている祈りの時間。これこそ、モーセが経験し、主イエスが教えてくださった、神さまとの尊い交わりの時間です。今、神さまは私たちを見つめていてくださいます。恵みと慈しみに満ちたまなざしを向けて。私たちが神さまに向かえば、そこには神さまのご慈愛の目があります。今、私たちは神さまに心も体も向け、神の愛の中に生かされる幸いの内に、今日の日を歩んでいきましょう。

2022年4月29日金曜日

2022年4月29日の聖句

互いに心の中で悪を企んではならない。
偽りの誓いを求めてはならない。
これらすべてを私は憎むからだーー主の仰せ。(ゼカリヤ8:17)
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、親切で憐れみ深い心をもって、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

今日の旧約聖書と新約聖書の二つの御言葉は、併せて読むことによって新しい輝きを放つ御言葉ではないかと思います。「互いに心の中で悪を企んではならない。偽りの誓いを求めてはならない。」主なる神さまは、預言者ゼカリヤを通してそのようにおっしゃいました。心に企む悪や偽りの誓いを、主ご自身が憎んでおられる。
ところが新約聖書に進んで行くと、更に一歩踏み込んでいると言えるのではないかと思います。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、親切で憐れみ深い心をもって、互いに赦し合いなさい。」
ゼカリヤ書では悪を企むな、偽りの誓いを求めるな、とどちらも否定的な命令が語られています。これこれのことをするな。ところがエフェソの信徒への手紙では、「親切で憐れみ深い心を持って、互いに赦し合いなさい」と、肯定的な命令の表現に変わっています。この違いは小さくないと思います。
このエフェソの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙でも、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」と言って、否定的な命令表現を凌駕する肯定的な命令を聖書から聞き取っています。「親切で憐れみ深い心を持って、互いに赦し合いなさい。」これこそ、神さまの私たちへの命令であり、肯定的な形での神さまから私たちへの期待です。
それは、他でもなく「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という言葉に根拠があります。主なる神様ご自身が私たちを赦し、キリストを与えてくださいました。神の赦しに応えて、私たちも憐れみと赦しに生きる。それが私たちの応答です。キリストがおられるから、私たちは「○○をしない」ではなく「憐れむ」「赦す」「愛する」という肯定の世界への扉が開かれている。キリストが私たちの世界を新しくしてくださったのです。

2022年4月28日木曜日

2022年4月28日の聖句

主は多くの民のために判決を下される。
彼らはその剣を鋤に、
槍を鎌に打ち直す。(イザヤ2:4)
神は、御言葉をイスラエルの民に送り、すべての人の主であるイエス・キリストを通して、、平和を告げ知らせてくださいました。(使徒10:36)

主イエスは私たちに、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることを教えてくださいました。この方が生まれた夜、天使たちは天高く神を賛美していいました。
「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」
主イエス・キリストこそ、神の御心をこの地に行い、平和を実現してくださると私たちは信じています。この平和はすでに来ている。「神は、御言葉をイスラエルの民に送り、すべての人の主であるイエス・キリストを通して、平和を告げ知らせてくださいました。」キリストが平和を告げ知らせ、私たちのために和解の福音をもたらしてくださった。だから、私たちがなおも争いと憎しみの世界を造ってしまっていることは、神に造られたものとして自己矛盾ですし、そういうさかさまな有り様を「罪」というのだと思います。神さまは私たちを戦争ではなく平和にふさわしく造ってくださいました。神に与えられた命は奪い合うためのものではなく、祝福し合うためのものです。
今日の旧約聖書の御言葉も印象深いものです。「主は多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。」剣を鋤に、槍を鎌に。人を殺すための武器を打ち直して、命をつなぐ作物を得るための農耕具に変えてしまう。とても美しく、また具体的な平和のイメージです。
今も、私たちの世界は損なわれています。新しい戦争が始まり、以前から起こっていた争いが続き、たくさんの人が力なく殺されている。これは、私たち人類の罪です。自分のこととして私たちはこの罪を悔い改める祈りを神に献げ、この世界の癒やしを願い求めます。私たちの平和の主であるイエス・キリストのお名前によって、私たちは今日も祈ります。

2022年4月27日水曜日

2022年4月27日の聖句

あなたがたが今日までしてきたように、主に、あなたがたの神に忠実であれ。(ヨシュア23:8)
何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。(2コリント3:5)

「責任」という言葉は英語でresponsibilityと言いますが、この言葉はrespondereというラテン語から生まれたそうです。「応答する」という意味です。責任とは応答すること。何に応答するのか?私たちにとっては、何よりも神への応答です。神が私たちに語りかけ、呼びかけ、それに私たちは応答する。私たちが何事かをなしたとしたら、それはただ神の呼びかけに応答した、ということだけです。
「何事かを自分のしたことと考える資格は、私たちにはありません。私たちの資格は神からのものです。」だから、私たちは然りには然りと言い、否には否と言い、ただ神の僕としてしなければならないことをします。神が私たちを呼んでおられます。私たちを、私たちの生きるべき場所へと神が遣わし、神が出会うべき隣人と出会わせ、そこで私たちが神に仕えることを期待しておられる。私たちはそのことを信じて、今日も神さまに仕えていきます。それが私たちの「責任」ではないでしょうか。
私たちは、必ず何かの僕になっているのではないかと思います。お金の僕になればお金に仕えることになるし、世間体の僕になれば世間体をよくするために生きることになります。しかし私たちは神の僕です。私たちを呼ぶ声は巷に溢れていますが、羊が羊飼いの声を知っているように、私たちは神の声に従う。聖書は「あなたがたが今日までしてきたように、主に、あなたがたの神に忠実であれ」と言います。本当にありがたいことに「今日までしてきたように」と言ってくれています。私たちの思いを超えて、神さまは私たちが今日まで神に仕えてきたと見てくださっています。恐れ多いことです。しかし、大切なのは変に自己卑下的な謙遜をすることではなく、聖書が言うとおり、今日までしたきたようにこれからも神に仕えることなのだと思います。
私たちのために僕になってくださった主イエス・キリストに仕え、神さまの呼びかけに応えるために、今日、私たちに新しい命が与えられました。

2022年4月26日火曜日

2022年4月26日の聖句

どこに、生きていて死を見ない人が、
自分の魂を死の手から救う人がいるでしょうか。(詩編89:49)
罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。(ローマ6:23)

聖書を読むと、死には二つの側面があるように思います。一つは、私たちが生きているものとして、あるいは造られたものとして、必然的に迎えるべき死です。私たちは造られたものであって神ではない。神に与えられた命は、人生の道を歩み終えた後、神にお返しすべきものです。命あるものとして、私たちはいずれ死を迎えます。それは、自然なことです。
ところが、死にはもう一つの側面があるのだと思います。そのことをローマの信徒への手紙では「罪の支払う報酬は死です」と言っています。私たちは、罪人として死ななければならない。神に裁かれ、滅ぼされ、罪の報いとして死を迎えねばならない。その死は、神の裁きとしての死です。
この二つの死は不可分に組み合わされていて別々に考えることはなかなかできませんが、しかしやはり、私たちはただ単に生物として命の終わりを迎えると言うだけではなく、神に裁かれなければならない一人の罪人だということは、忘れてはならないことなのだと思います。主イエスは十字架の上で「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。キリストは神に裁かれて死ぬことがどんなに恐ろしいことなのか、神に棄てられることがどんなに悲惨なことなのかを誰よりもご存じでした。だから、誰よりも深く絶望なさいました。罪を犯したことのない方がほんの僅か一瞬であっても御自ら神の子であることを放棄して、私たち罪人の代表として神に裁かれ、死の呪いを引き受けたのです。
だから、聖書は言います。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」キリストが、私たちを罪から救ってくださいました。私たちの代わりに神に裁かれた方は、私たちを命へと救ってくださいました。だから、私たちはもう神の裁きとしての死、神に棄てられ、呪いとしての死を経験しないで済むのです。私たちがなお迎えねばならない死の意味が変わった。死は、今やよりよき命に生まれるための通路に過ぎないのです。私たちは既に死んだ者たち、そして自分自身の死についても望みを持っています。キリストが命へと救いだしてくださった、という希望を。

2022年4月25日月曜日

2022年4月25日の聖句

天は喜べ。地は楽しめ。民々の間で告げ知らせよ。主が支配されると。(歴代誌上16:31)
イエスは言う:私は天と地の一切の権能を授かっている。今、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)

「主が支配される!」この事実を、主イエスは「神の国は近づいた」とおっしゃいました。主イエスさまのなさった宣教は、主が支配される神の国がもうここに来ている、という宣言です。主は王となられた。主が支配される。主イエス・キリストが天と地の一切の権能を神から授けられた。私たちはその事実を信じ、「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ生きています。
今日の旧約聖書の御言葉は、ダビデの献げた感謝の祈りの一節です。十戒が納められた神の箱を都に向かえ、神さまの御前に礼拝を献げた時の詩編です。「御名の栄光を主に帰せよ。」「全地よ、御前におののけ。」「海とそこに満ちるものは、とどろけ。野とそこにあるものも皆、喜び勇め。」そのように賛美に賛美を重ねて、主なる神さまの御支配を喜び、それに服して神を賛美しています。
私たちが献げる礼拝も、ダビデの献げた礼拝と同じです。私たちは何よりも神さまを礼拝する時に神さまの御支配を知り、神さまの御支配のもとに生きている。神さまの支配は私たちを圧迫し、痛めつける支配ではありません。私たちに喜びを与え、勇気を得させ、私たちが楽しんで神の支配を賛美することのできる、恵みに満ちた支配です。
「私は天と地の一切の権能を授かっている」と言われた方は、私たちのために十字架にまでかかってくださった方です。私たちを極みまで愛し抜いてくださった方です。このキリストのお姿に、神さまの御心は余すところなく現れている。ここに見える神の支配は私たちの喜びです。だから、神さまを礼拝することは私たちの喜びです。私たちが神さまの恵みを経験するかけがえのない時です。
今日も、私たちはキリストの支配する世界で生きていきます。私たちの目にそれがよく見えない時にこそ、信じましょう。この世界の根本にあるのは、混沌とか憎しみとかではなくて、キリストの愛に満ちた支配なのだ、ということを。私たちはキリストの福音によって、今日も生かされているのです。

2022年4月24日日曜日

2022年4月24日の聖句

私は主にあって喜び、わが救いの神に喜び踊る。(ハバクク3:18)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)

今日の新約聖書のルカによる福音書の御言葉は、この段落全体を読むととても興味深い箇所です。主イエスの72人の弟子たちが伝道旅行に派遣された。行く先々で、彼らは悪霊を追い出し、服従させることにさえ成功しました。帰って来て、主イエスにそのことを喜んで報告した。すると主イエスが言われるのです。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」
せっかく成果を上げて帰って来たのに、水を差すようなことを主イエスは言われるのです。そんなことを喜ぶな、と。ある意味では、主イエスからしたらそれは当然、という思いもあったのかも知れません。私が力を授けたのだから、悪霊に打ち勝つのは当然だ。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」むしろ、このことを喜べ、といっておっしゃったのが、今日の御言葉です。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
今日、私たちは自分の喜びを点検してみたいと思います。私たちの喜びはどこから来る喜びでしょうか。自分が上げた華々しい成果なのか。それは主イエスのご用のお役に立った、という喜びであったとしても、主イエスは、私が力を授けたのだからそれは当然、と言われるかも知れません。私たちは何ができた、どういう成果を上げることができたということよりももっともっと大きな奇跡にあずかっている。そのことをこそ喜べ、と主は言われます。「あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい。」神が私たちを覚え、私の名前も記してくださっている。私もキリストに救って頂いた。その事実をこそ喜べ、と主は言われます。
もしかしたらこの喜びは、私たちにとっては存外にしんどい喜びではないでしょうか。目に見える成果や自分の成長のほうが分かりやすいし、納得しやすいし、説得力があります。しかし本当に価値があるのは、私の力がどれだけなのかということではなく、悪霊を追い出す力を与え、私の名を天に記録することさえできるキリストのお力です。そのキリストが今日も私の救いのために働いてくださっている。その事実を私たちは喜び、主の御前に歩む。ここに、尽きることのないまことの喜びがあります。

2026年9月9日の聖句

怒りを遅くする人は勇士にまさり 自分の心を治める人は町を占領する者にまさる。(箴言16:32) ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。(黙示録14:12) 私にとっては痛い言葉です。 「怒りを遅くする人は勇士にまさり、...