2025年10月20日月曜日

2025年10月20日の聖句

その支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ。(ゼカリヤ9:10)
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン」。(マタイ4:8~10)

自分には、世のすべての国々とその栄華とを全部与えることができる。悪魔はそのように嘯きます。そしてそのために「私を拝め」と言います。神のことなど忘れろ、神を父と呼ぶことなど止めて私を頼ればいい、私があなたの欲しいものを与えることができるのだから。悪魔はそのように言うのです。
主イエスは、「退け、サタン」と言います。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の御言葉をもって悪魔と戦われます。私たちにとって本当に大切なのは、本当にかけがえのないのは、主なる神さまのみを礼拝すること。世界の国々やその栄華ではない。それらを欲する貪欲自体が、すでに悪魔の虜になっている心から生まれてくるものなのかもしれません。
今日の旧約には「その支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ」と書いてあります。主なる神さまの御支配、神の国は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ。この世界をおっている。主なる神さまの御支配は、この世界の輝きとは違います。十字架にかけられたお方が王でいらっしゃる国です。低く下ったお方の御支配です。神の国はこの世のきらめきに包まれているのではなく、飼い葉桶の中にあります。
ただこのお方だけを拝み、この神だけにひれ伏し、神の国を生きていきたい。そのように願います。

2025年10月19日日曜日

2025年10月19日の聖句

今週の聖句:
神を愛する者はきょうだいをも愛すべきです。これが私たちが神から受けた戒めです。(1ヨハネ4:21)

今日の聖句:
神よ、沈黙しないでください。神よ、押し黙らないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ち、あなたを憎む者は頭をもたげました。(詩編83:2~3)
主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

「主よ、剣で切りつけましょうか」と弟子たちが主イエスに言ったとき、彼らの気持ちとしてはまさに今日の詩編のとおりだったのかもしれません。「神よ、沈黙しないでください。神よ、押し黙らないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ち、あなたを憎む者は頭をもたげました。」
これは、イスカリオテのユダが群衆の先頭に立ち、主イエスを捕らえようとやって来たときのことです。主イエスはユダに「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃった。それを聞いた者が「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、他の者は実際に大祭司の僕に打ちかかって右の耳を切り落としました。敵の脅威を実力でなぎ払わなければならない、と考えたのです。
今日の旧約の祈りの言葉と新約の主イエスの周りにいた人々とは、似ているようでありながらよく考えると全然違います。今日の旧約は解決を神さまに祈り求めています。神がどうにかしてくださることを待っています。しかし主イエスの周りの人々は自分たちの暴力で事を解決しようとしました。
剣を取り、右の耳を切り落とした者たちに向かって主イエスは「もうそれでやめなさい」とおっしゃって、その耳に触れて癒やされました。そして主イエスは捕らえられ十字架にかけられていきます。騒ぎ立っている敵、憎しみに打ち震える者にご自分の身を委ねられました。
私たちはキリストの愛と憐れみが生んでくださった実りです。キリストは私たちの憎しみや力の論理に、愛や癒やし、和解をもって向かってくださいます。そのようにして私たちはキリストに迎え入れられました。私たちもまたそのようなキリストの実りにしていただいている。その事実をしっかりと受け止めたいと願います。

2025年10月18日土曜日

2025年10月18日の聖句

憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。(ダニエル9:9)
イエス・キリストにおいて、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソ1:7)

私たちはイエス・キリストにおいて、その血によって贖われました。つまり、買い戻されました。私たちは神ならぬものの奴隷でした。それは罪の力であり、悪の力です。私たちが愛し合って生きることは非現実的だと囁く力です。社会システムがどんなに非人間的であっても、それが現実だと嘯く力です。分裂と憎しみと貪欲の力です。この世界を支配する時代精神です。悪の力は強い。社会全体を動かす悪の力に、私たち自身では勝つことができません。
そんな私たちをキリストがご自分の血によって贖って、神のものとして買い戻してくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではないし、悪の手先でもない。キリストが私たちの罪の赦しとなってくださったからです。
私たちには罪がよく分かりません。いわゆる「手が後ろに回る」ようなことなら見分けがつくかもしれない。あるいは、そうでなければごく小さな自分の心の問題として、自分の劣等感や不全感に基づいて自分なりに何かを「罪」と思い込むことも、私たちには難しくないかもしれません。しかし聖書は、私たちが本当に神に反逆していることを見抜いています。そしてそれに私たちがどんなに鈍感なのかも、聖書はよく知っています。私たちには自分の罪が分からない。ただ分かるのは、キリストの赦しの恵みの輝きです。キリストが血を流したことです。その輝きに包まれて、初めて、おぼろげにであっても、自分の罪がどんなに深く自分自身を罪と悪の奴隷として売り渡す深刻な問題なのかが見えてくるのだと思います。私たちが本当に罪を知ることができるのは、キリストに既に赦された罪だけです。
ですから神の赦しの恵みの中を今日一日、生きていきましょう。キリストを見上げましょう。キリストの愛があなたを覆っています。あなたを包み込んでいます。

2025年10月17日金曜日

2025年10月17日の聖句

私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。(創世記32:27)
イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。(マタイ19:13)

「私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。」本当にすばらしい言葉です。なんとしてでも主にすがりつき、その祝福を求めました。これはヤコブの言葉です。ある、ヤコブがたった一人でいたときのこと。「ある男が夜明けまで彼と格闘した」と聖書は伝えています。それは、主なる神様ご自身だった。ヤコブは主と格闘しました。格闘の末に、彼は主の祝福を求め、主を掴んで放そうとしなかったのです。
クリスティアン・メラーという実践神学者がいます。この先生の御著書に、このような内容の話が書かれていました。「私たちの信仰には、三つのものが欠かせない。それは、祈り、黙想、誘惑だ。」祈りと黙想というのは意味が分かるような気がします。祈ることも、聖書の御言葉を思い巡らすことも、確かに欠かすことができないでしょう。それに対して「誘惑」というのは、分かりにくいです。どうして不可欠なのか?むしろ避けたいように思います。何を意味しているのか。
この「誘惑」という言葉には「攻撃」という意味もあるのだそうです。神からの攻撃です。祈るとき、聖書を読んで黙想するとき、私たちはしばしば神から攻撃される。ヤコブのように。神に追い詰められ、信仰の危機に晒されてしまうことがある。神を信じていれば誰にでも起こります。どうして神はこのようなときに放っておかれるのかと思うような試練が。しかし、実は神に放っておかれているのではなく、神ご自身から攻撃されている。そして、それこそが私たちの信仰に欠かすことのできない時間だ、とメラー先生はおっしゃいます。そういう神からの攻撃に身をさらすことによって、私たちは神の祝福を頂くのです。
主イエス・キリストは私たちにも手を置いてくださいます。神の子として。愛する子どもとして、私たちにも手を置いてくださる。キリストの祝福の手を信じて、神と格闘しましょう。神に対して訝しく思うとき、信仰が揺らぐとき、実は神は私たちのすぐ側におられます。組み合うほどに、神は私たちに肉薄しておられるのです。

2025年10月16日木曜日

2025年10月16日の聖句

(主のイサクへの言葉)恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを祝福する。(創世記26:24)
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいます。(エフェソ1:3)

「恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを祝福する。」この神の祝福の宣言は、どのような時にも私たちに響き続けます。どのようなときにも神は必ず私たちと共にいてくださるし、神の祝福が私たちから離れることはない。この揺るぎない事実を、私たちも信じましょう。
今日の新約の御言葉はこのように言っています。「神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいます。」あらゆる霊の祝福と言います。聖霊が私たちに与えてくださる祝福。聖霊なる神さまが私たちに働いてくださって、私たちを「神と共にいる者」としてきよめてくださる。神が共にいてくださるという事実は、私たちを新しくします。私たちがキリストと共に生き、キリストに従って生き、キリストのために生きる者にならせてくださる。そのために、聖霊は「あらゆる祝福」で私たちを支えてくださいます。
今日、神は私たちと共にいてくださいます。ご飯を食べているときにも、人と話しているときにも、床に就いているときにも、神は私たちと共にいてくださいます。ですから、どのようなときにも神の御前にある聖なる者として、神の祝福の中を生きていきましょう。

2025年10月15日水曜日

2025年10月15日の聖句

あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。(イザヤ55:12)
七十二人(の弟子たち)は喜んで帰って来て言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17,18,20)

主イエスに遣わされていった七十二人の弟子たち。主イエスがなさっていることを託されました。彼らは平和を告げ、神の国が来たことを宣言した。主イエスの力は強い。彼らは主イエスのお名前で悪霊を追い出すことさえできた。自分の力では到底なしえないことができたのです。どんなに嬉しかったかと思います。「七十二人は喜んで帰って来て言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」喜びと誇りに満ちた成果報告だったはずです。
ところが主イエスは弟子たちが予想したのとは違う反応でした。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
主イエスからしてみれば、主のお名前によって悪霊が従うことなど当然であったのだと思います。主イエスはサタンが天から落ちるのさえ見ておられた。神の子でいらっしゃるお方の権威に悪魔が服従しないわけがない。だから、そのようなことを自分の成果として誇るのではなく、むしろ、あなたもまた神の国の民とされていることを喜ぶがいい。主イエスはそうおっしゃいます。
私たちは自分の成果やできたことを誇り、そうでなければできなかったことに引け目を感じます。しかし主イエスにとってそれは小さな事に過ぎません。それよりも、私たちの小さな名前さえも神の国にしるされている。その事実の方が主イエスにとってはよほど大きな事だとおっしゃいます。そのためにこそ、主イエスは私たちのところに来てくださったのですから。ですから私たちも、この事実を宣べ伝えるためにこの世界へと出て行きます。「キリストのお名前によって、あなたも神の国の民にされている!」この福音を携えて。

2025年10月14日の聖句

あなたは私の命を死から、目を涙から、足をつまずきから助け出してくださった。(詩編116:8)
ここに、十二年この方、出血が止まらない女がいた。医者に全財産を使い果たしたが、誰にも治してもらえなかった。この女が後ろから近寄って、イエスの衣の裾に触れると、たちまち出血が止まった。(ルカ8:43~44)

十二年間出血が止まらない病にかかっていた女性。彼女の病は「穢れ」とされていました。つまり、宗教的なタブーとされ、礼拝に行くこともできず、彼女が触れたものも「穢れ」とされていました。彼女は、病による肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも、社会的にも、とても苦しい立場にありました。さらに、彼女は医者にかかって全財産を使い果たしました。12年の間、誰が自分を癒やしてくれるのか、さまよい続けました。しかしお金が消えていくだけで、誰も彼女を癒やすことはできませんでした。
そんな一人の人が主イエスに向かって手を伸ばします。主の衣の裾にでも触れれば癒やして頂けると思ったのです。そして事実、主の力によって彼女は癒やされました。出血が止まったのです。
ところが主イエスはそれで終わらせませんでした。主は立ち止まり、一体誰がご自分に触れたのかを探し始めた。彼女は名乗りを上げ、恐る恐るすべてを話しました。すると、主イエスは彼女に言ってくださった。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
主イエスとの出会いは、本当に「あなたは私の命を死から、目を涙から、足をつまずきから助け出してくださった」という出来事です。それは肉体が癒やされること以上の意味を持つ出会いです。主イエスにただ後ろから一方的に触れるのではなく、主イエスと向き合い、思いの丈を祈り、主イエスの御言葉を待ち望む。そうやって主と出会うことこそ、本当に私たちに必要な出会いなのです。

2025年10月20日の聖句

その支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ。(ゼカリヤ9:10) 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン」。(マタイ4:8~10) 自分に...