2024年4月30日火曜日

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6)
しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。(テトス3:4~5)

神は私たちの救い主。この神の慈しみ、人間への愛。神の憐れみによって私たちを救ってくださる神。私たちは神の憐れみと慈しみに囲まれています。神の愛が私たちを覆い尽くしています。私たちの信じる神様は、私たちからしたら考えられないほどの愛と慈しみとに満ちたお方です。
復活した主イエスがガリラヤ湖で再びシモン・ペトロと出会ってくださった、という話が聖書に記録されています。主イエスは「ヨハネの子シモン、私を愛するか」とお問いになり、それに対して彼が「はい、主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えた、というのです。実はこのとき、主イエスがおっしゃった「愛」とシモン・ペトロが答えた「愛」とは原語を見ると違う単語で言い表されています。主イエスは「アガペー」という字で表す愛を尋ね、シモンは「フィリア」という字で表される愛で答えました。フィリアは、日本語の「大好き」に近い語感もあるようです。ペトロは、自分が主イエスを裏切ったことも念頭に置きながら、そんな罪深い自分を主に委ねるようにして「イエス様、私はあなたを大好きです。そのことはあなたがよく知っていてくださいます」と言った。主イエスはそんな彼を受け止め、受け入れてくださいました。
シモンはキリストの慈しみに、愛に、憐れみにすがりました。主イエスが大好きでした。私たちも同じです。この方の憐れみによって私たちも再生の洗いを受けている。罪深い私たちを洗って新しくしてくださるのは、ただキリストだけです。私たちへのキリストの愛に応えて、イエス様を大好きな思いを大事にして、今日の日を歩んでいきたいと願います。

2024年4月29日月曜日

2024年4月29日の聖句

主は正しい。私は主の口に逆らった。(哀歌1:18)
ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(マタイ21:28~29)

今日の新約の御言葉は、主イエスの譬え話です。二人の兄弟がいました。兄は冒頭の通りです。父にぶどう園で働くように言われて「いやです」と言ったものの、後で考えを改めて働きに行きました。ところが弟は同じように父から言われて「はい、お父さん」と言っておきながら、出かけませんでした。そして、主イエスは問いかけておられます。「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」と。
弟の姿に重ねられているのは、祭司長たちや民の長老たちです。口先では立派なことを言いながら、実際にはちっとも神に従おうとしない。それに対して兄の姿に託されているのは徴税人や娼婦たち。父である神の命令に「いやです」と反抗的ですが、後で考えを改めて父の言葉に従う。主イエスは祭司長たちに問われます。この兄のような人たちとあなたたち、どちらが神に従っているのか?主イエスは私たちに問うておられるのです。
「主は正しい。私は主の口に逆らった。」私たちに残るのは、ただただこの事実だけです。口先ではなんと言えても、実際の生き方が神に従うものとなっていない。神の喜んでくださる生き方をしようとしていない。そんな私たちの姿は、神様の御前に本当に恥ずべきものです。キリストは私たちに、神の御心に立ち返って欲しいと言って招いてくださっています。今はまだ、考え直すのに遅すぎると言うことはありません。キリストが招いてくださっている今こそ、その時です。キリストの声に導かれて、神の御許に帰りましょう。

2024年4月28日日曜日

2024年4月28日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編96:1)

今日の聖句:
私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください。(詩編86:11)
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与えになりました。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地下のものすべてが、膝をかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。(フィリピ2:9~11)

今日与えられている旧約聖書の詩編に「私の思いを一つにし」と書いてあります。興味深い言葉です。「私たちの思い」ではなく、「私の思い」です。今、自分の思いが一つでなくなってしまっている。私の中で思いがバラバラになってしまっている。なぜか。この詩編を最初から読むと、これは苦しんでいる者の祈りの言葉です。苦しみの中で思いがバラバラになり、自分で自分をどうすることもできなくなってしまっている。そういうことではないかと思います。
私たちにもよく分かるのではないでしょうか。私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。苦しみのために自分の思いを自分でもどうすることも出来なくなってしまう。一つの心ではなくなってしまう。
そういう思いの中で、この信仰者は祈ります。「私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください。」一体どうやったら思いが一つになるのか。自己がばらけてしまう危機からどうしたら救われるのか。神を畏れ、神を礼拝することによってだ、と言うのです。本当にそうです。私たちは神を畏れ、神を崇めるとき、初めて自己が自己になるのです。
主イエス・キリストの御名を私たちは崇め、この方がしてくださった救いの御業をほめたたえるために、今日、神の御前に招かれています。キリストはあなたをご自身の祝福で覆い包んでくださっています。キリストのご慈愛の中で、新しい一週間が始まります。

2024年4月27日土曜日

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35)
イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)

十字架にかけられた一人の罪人が主イエスに言った言葉が、今日私たちに与えられています。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」この人は主イエスの隣で十字架にかけられていました。そして、自分は罪を犯し、そうされるのが当然の人間だと知っていました。隣の十字架の上にいたイエスの、神の子としての憐れみにすがっていったのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」これが、今日の私たちの祈りです。
しかし、このとき反対側の隣りにいて十字架にかけられていた別の罪人は、同じようには祈りませんでした。それどころか自分も十字架にかけられているのに、十字架にかけられている主イエスをなじり、軽んじました。自分の罪深さを認めることのなんと難しいことでしょう。私たちが自分の罪を知り、それを悔い改めるのは!
だからこそ、預言者エレミヤを通して神さまはおっしゃいます。「『私には罪がない』とか、『主の怒りは私から去った』とあなたは言う。『私は罪を犯していない』と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。」神さまは、私たちがどんなに強情で、どんなに頑固に、自分の罪を認めようとしないかをよくご存じです。神さまは私たちのことを私たち以上によく知っておられる。
私たちは、十字架にかけられたキリストを仰ぐときにだけ、自分の罪を知ることができるのです。十字架にかけられたお姿のキリストと出会い、キリストの御前にひれ伏すときにだけ、私たちは自分の罪を知ることができる。私たちはキリストの御許に帰ります。キリストの伸ばしてくださった腕の中に立ち返ります。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。」そう祈りつつ、キリストの御前に進み出ていきます。

2024年4月26日金曜日

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13)
(イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」(マルコ12:29~31)

「神を畏れ、その戒めを守れ」と言います。その戒めは、神を愛すること、そして隣人を愛すること。この二つだ、と主イエスがおっしゃいました。愛の戒めこそ人間のすべてです。
唯一の主であるお方への愛。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神さまを愛する。主なる神さまの愛を、キリストに示された神の愛を思い起こすとき、一体私たちにどうやって神への愛を現しうるのだろうか、と思います。どんなに愛しても愛し足りないお方です。しかし、自分の愛のなんと乏しいことでしょう。しかしそれでもなお神は私たちの愛を求めてくださいます。私たちが力の限りに神を愛する愛を、それがどんなにちっぽけで、偽りにまみれていたとしても、私たちの献げる心を喜んでくださる、慈しみに満ちたお方です。
隣人への愛。自分を愛するように隣人を愛しなさい、と主はおっしゃいます。自己愛にも、他者への愛にも病んでいる私たちです。愛することはなんと難しいことでしょう。具体的に考えれば考えるほど悲しくなります。しかし、キリストは私たちに先立って愛の道を拓いてくださいました。キリストが私たちのために愛を示してくださいました。私たちも、どんなに愛に乏しくても愛に生きる道が開かれている。そのことを大胆に信じて良いのです。この私のうちにも始まっている神の御業を。
今日一日の、キリストの祝福を祈っています。

2024年4月25日木曜日

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。
あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9)
イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50)

主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて行かれた、と聖書は伝えています。主イエスは祝福の手を上げたままで天におられるのです。
「救いは主のもの。あなたの民の上に祝福を。」今日も、キリストは私たちのための祝福を告げてくださっています。今日も私たちはキリストの祝福の中を生きています。私たちがどこにいようとも、キリストが祝福してくださっています。私たちが何をしているときにも、キリストの祝福がなくなってしまうことはありません。そうであるからこそ、キリストの祝福を無駄にしない一日でありたいと願います。
聖書は「救いは主のもの」と言います。私たちを救ってくださる主の御業は、主ご自身のものです。だからこそ確かであり、力がある。キリストの救いの御業は、いつも、いつまでもその力を振るいます。私たちが眠っているときにも、起きているときにも。休んでいるときにも、働いているときにも。悲しみのときにも、喜びのときにも。いつもキリストの十字架と復活の福音は私たちを救い続ける。キリストに示された神の祝福は永遠に私たちから離れることがない。どのようなときにもキリストの祝福の声が響いています。イエス・キリストの手の下で、私たちの今日一日の歩みが進められていくのです。

2024年4月24日水曜日

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4)
天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6)

「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝、天使は女たちにそのように告げました。「あの方は、ここにはおられない。」そうです。この世界に、主イエスがおられない場所があるのです。「あの方は、ここにはおられない。」主イエスがおられない場所、それは、十字架にかけられて葬られた墓の中です。キリストはもはや墓の中にはおられない。復活なさったからです。
キリストは復活なさった。もはや、主イエス・キリストは死人の中にはおられない。キリストは今生きておられる。死者の中にキリストを捜しても、そこにはおられません。
しかし、私たちはそれと同時に、キリストはどこにでもいてくださると信じています。十字架の上で、キリストは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。キリストは神に棄てられた。陰府に降って行かれた。この世界にキリストのおられない場所、キリストの手の届かない場所はどこにもない。
しかしそのお方はいつまでも陰府の底に沈んでおられるのではない。今や復活し、生きておられる。陰府に降った方は死者の中から神によって引き上げられて、生きておられる。だから、私たちがやがて陰府の底で死者のひとりとして身を横たえるとき、その陰府は復活の命への通路に他ならない。キリストが通してくださった道です。私たちはもはや死に支配されていない。だから、聖書は「恐れるな」と言います。キリストの命の道が、今日私たちの進む道だからです。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...