2015年3月29日日曜日

マルコによる福音書11:1-11「あなたの王がやって来る!」


主イエスは満を持してエルサレムの都に入城なさいました。それに際して乗られた子ろばを巡って、不思議なやりとりがあります。主イエスはご自分が乗るための子ろばを既に手配しておられたようです。ここに、エルサレムに入られるために、主イエスご自身と父なる神とが、並々ならぬ準備をしておられたことが伝わってきます。主イエスは満を持してこの時をお迎えになったのです。王として、ご自分が迎えられるために。人々がろばの上に自分の服をかけたのも、服を道に敷いたのも、枝を振ったのも、どれも王をお迎えする仕草です。王であるイエスが来られる。しかし、うかつなことに、私にはあまりピンときませんでした。一つには、自分があまりよく王という人が何者なのかを知らないからです。しかし、それだけではなく、私は「王」と言おうが何と言おうが、人間の支配者が権力を持って振る舞うことがあまり好きではなく、主イエスに王というイメージが似つかわしくないと思ったのです。うっかりすると、人間の支配と一緒にキリストのご支配までもご遠慮申し上げる過ちを犯しかねません。キリストの支配、神の支配を退けるとき、私は自由になるのではなく、他のものの支配の下に降っているにすぎないのです。エフェソの信徒への手紙第2章に、かつて私たちは肉の欲望に従い、肉や心の欲するままに生きてきた、それは悪霊に支配されていたのに他ならないと言われています。その通りです。主イエスは王として来られました。王として戦い、私たちを勝ち取るためです。主はオリーブ山の麓からエルサレムへ向かわれましたが、この山はゼカリヤ書第14章によると、救い主が人々を救うための戦いの時に立つ場所です。主は王として戦われます。なぜか?この私を勝ち取るためです。悪霊に支配され、そのために罪の虜になって肉の欲望の赴くままに生きてきた私をご自分のものとして神の怒りから免れさせるためにです。洗礼とはそういうことです。洗礼を受けた者はキリストが戦いで勝ち取った領土、キリストの戦いの前線基地になるのです。ナチに抵抗して強制収容所で獄中死した牧師パウル・シュナイダーは連行されるとき涙ながらに妻が朗読する聖書の御言葉を聞きました。「すると、長老の一人が私に言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、・・・。』(黙示録5:5)」神の御心が見えない現実に涙しつつ、御言葉を聞きました。「屠られた小羊」であるイエスがおられる、と。王として来られたイエスはろばに乗る柔和な王です。ゼカリヤ書9:9-10を見ると、ろばに乗る王は戦車と軍馬を絶って平和を告げるとあります。キリストの戦いは軍馬によるものではない。へりくだり、十字架にかかることで、私たちを神の愛の御支配へと勝ち取ってくださったのです。

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第 16 章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主...