2015年3月30日月曜日

マルコによる福音書第11章12から19節(2015年3月30日・月曜日の受難週祈祷会の奨励)

1.
ここに記されている主イエスのお姿をどう感じるだろうか。お腹がすいたからといちじくの実を求め、しかし季節ではなかったので実はなかった。それを知って、主はいちじくの木を呪います。また、神殿ではお店をめちゃくちゃにしてしまいます。神殿ではその当時流通していたローマの貨幣を献げられませんでしたので、ユダヤの金に換える両替商がいました。献げ物にする鳩も無傷のものでなければならなかったので、自宅から連れてくるのは大変です。自宅で育てた鳩を売り、神殿の境内で買い直して献げていたのです。或いは、境内を横切って物を運ぶ。それらのことは、そんなに激しく怒らなければならないほどの悪い行いなのでしょうか?いちじくの木を呪ったことと言い、神殿での振る舞いと言い、主イエスらしくないように思います。ちょっと躓いてしまうなさりようではないでしょうか。

2.
主イエスは神殿で聖書をひいて言われました。
 「こう書いてあるではないか。
 『わたしの家は、すべての国の人の
 祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
主イエスがなさったことに負けず劣らず激しいお言葉です。そこまで激しく断罪しなければならなかったのでしょうか?

3.
思えば、前日に主イエスはエルサレムの都に入城してすぐに神殿の境内に入って、辺りの様子を見て回わられました。物見遊山に行かれたのではありません。主は神殿での人々の祈りの様子を見に行かれたのでしょう。その姿は、主の御目からご覧になって、もはや祈りの家とは呼べないものになっていたのです。
神殿の商売は、どれも、礼拝を献げる者たちの便利のために作られていました。そして、そこでもうけを出して生計を立てる者がいました。貧しい者には礼拝に生きにくい環境さえ生まれていたことでしょう。それは、祈りの家ではなく、強盗の巣でしかない。便利をはかり、合理化し、利益を求め、自分の都合で礼拝と祈り(神に向かう生活)さえも少しずつ変えてしまう。そういう姿を主イエスはご覧になったのではないでしょうか。

4.
ゼカリヤ書第14章21節に、「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」という言葉があります。「その日」とは神が戦われる日、私たちを解放してくださる日です。キリストを信じる私たちにとって、それは、キリストが十字架にかかられた今日を指すと言えましょう。その日には、もやは主の神殿に商人がいなくなる。神殿が私たちの欲にまみれた罪の家、強盗の巣ではなく、祈りの家として新しくされるのです。

5.
いちじくの木の話は、この神殿での出来事を象徴的に表しています。主イエスの空腹は、切に神を求め、身と心を注ぐようにして神の御前に祈る信仰者を求める飢えです。しかし、そのような祈りを見いだすことができなかった。今は季節ではありません、今は都合が悪いのです、今は自由な時間にしてください、今は忙しいので・・・そのように言って、自分の都合やしたいこと、利益を優先させて、誰一人祈りの実りをもたらすことがない。主イエスはそういう私たちの現実をご覧になったのです。そして、その事を深く嘆いておられる。

6.
最初、わたしは、主イエス裸子から名ぬ行動にちょっとつまずくと申しました。むしろ、私たちの祈りを失った姿に躓いているのは主イエスの方ではないかとさえ思います。しかし、主は躓いてもなお私たちを見捨てることなく、十字架に向かう道を進んで行かれます。こうして、受難週の歩みが続くのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...