2015年4月3日金曜日

マルコによる福音書第15章21から41節

1.
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

主イエス・キリストは、そのように叫んで死なれました。キリストは神に見捨てられて死なれたのです。このような絶望のどん底の叫びを、私たちはしたことがあるでしょうか。或いは、もっと立派な死を迎えた人はたくさんいます。主イエスと同じようにいわれなく死刑にされたり、拷問の果てに獄死したりするのであっても、堂々と、立派な最期を迎える人はたくさんいるでしょう。

しかし、主イエスさまは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。絶望して死なれました。神の子らしい、堂々とした、立派な最期ではありませんでした。このお姿につまずく者も多いかもしれません。事実、主イエスの死は、たくさんの人たちの侮辱に囲まれていました。

罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

これも既に侮辱以外の何物でもなかったのでしょう。ユダヤ人の王と認め、重んじていたわけではありません。大体、「ユダヤ人の王」が罪状などというのは、全く話が通らないことです。普通は殺人とか強盗とか、罪状というのはそういうものです。しかし、主イエスは「ユダヤ人の王」と侮辱されて殺されました。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

主イエスのこれまでのお言葉、なさったことをあげつらい、イエスを侮辱します。周りにいる者皆にののしられ、謂われなきことで責められるのです。むしろ、隣人への愛に生きたことでもってののしられました。人間として許されない言葉です。しかし、事実、主イエスはそういう人間として許されない言葉を浴びせられながら死なれました。
そこには、神としての威厳も、尊厳も、栄光も、何もありません。主イエスの神の子らしさはどこにもありません。まことに神の子らしい奇跡も、力も、何もないのです。

2.
イエスが、このようにして、侮辱され、神からも見捨てられて死なれた。だから、私たちは、決して、神から見捨てられることはもはやないのです。わたしの代わりに、イエスが神から棄てられたからです。
人々はイエスを侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」メシア、イスラエルの王、それは、全て皮肉です。「他人は救ったのに、自分は救えない」、これも皮肉です。人々の病を癒やし、友なき者の友となり、そうやって、人々を救ってきた。民衆の心を掴んできた。しかし、今、お前は自分自身の事さえも救えないではないか。そのように言ってイエスをののしりました。
その通りなのです。この方は、他人を救うのに自分自身を救われません。しかも、私たちを、ただ病や寂しさから救うというのには留まらない、罪から救うために、ご自分を救うことなく神から見捨てられて死なれました。その死を、ご自分の神の子らしさを隠してでも引き受けてくださいます。
だから、わたしが救われたのです。それ以外にはわたしが救われた理由は何一つありません。

3.
ここには二人の人のイエスとの出会いが報告されています。
一人目は、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人」です。彼は田舎から出てきて、たまたまそこにいました。なぜなのか、理由は書かれていません。しかし、運悪くそこににいたこの男は、イエスの十字架を無理やり担がされます。一体どれほどの重さだったのか。丘を登る道を、肩に食い込む十字架を担いで上って行く。いや、そのような肉体的な苦しみだけではありません。イエスが受けていた侮辱を一緒に浴びせかけられるようなところがあったのではないかと思います。一緒にさらし者にされる感覚ではなかったでしょうか。この時、彼は何を思い、イエスのことをどう感じたのでしょうか。
それは、分かりません。しかし、一つ言えることがあります。このシモンという人物は、使徒言行録第13章1節に登場するアンティオキア教会の「ニゲルと呼ばれるシメオン」と同一人物ではないかと推測されています。或いはその子ルフォスはローマの信徒への手紙第16章13節の「主に結ばれている選ばれた者ルフォス」のことではないかと言われています。キレネ人シモンは、この時の出来事を通して主イエスを神の子と信じたのではないかと考えられています。
そして、もう一つの出会いがあります。イエスが死なれたのを側で見ていた一人の人がいました。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」「このように息を引き取られた」というのは、神の子であることが隠されてしまうほどのイエスの嘆き、人々の侮辱、それら全てを含むのではないでしょうか。このお姿を見たとき、却って、「本当に、この人は神の子だった」と告白せざるを得なかったのです。
私たちは、十字架にかけられたキリストのもとへと招かれています。このお方が受けた侮辱は、わたしの侮辱です。わたしが口にしてしまった侮辱であり、同時に、わたしが受けるべき侮辱です。このお方が神に見捨てられて死なれたのは、わたしが見捨てられるべきであった絶望を、わたしに代わって苦しんでくださったのです。この方こそ我らの救い主。この方こそ、神の子。
神の子イエス・キリストは、あなたのために十字架にかけられました。

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*今日10月21日は姉妹教会の成瀬教会との講壇交換のため、「今日の説教」はお休みです。 このブログには掲載していませんが、火曜日から土曜日までの朝 8 時頃にメールで小説教の配信をしています。交読を 希望する方は メール でお申し込みください。サンプルとして、10月...