今日は第3章1節からですが、第2章43節からのところをみると、最初の教会の姿が描かれています。とても和気あいあいとしているようです。皆心を一つにして、財産や持ち物を売り払って、各々の必要に応じて、皆がそれを分け合っていました。なんと幸いな時間でしょう。しかし、教会はそこに留まりません。世界へと出ていきます。祈るために。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。・・・彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。」祈りの道はこの世の惨めな現実から離れてしまうのではありません。まさに、そのような現実のただ中を進みます。しかも、彼は生まれつき足が不自由でした。自分の力の及ばない不条理に苦しみ、嘆く人々のただ中で祈るのです。ペトロとヨハネの祈りは、この人と向き合うことから始まりました。彼らは一緒にこの男をじっと見つめます。そして、言うのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」私たち教会には金や銀はありません。そういう実力を発揮してこの世の惨めさに立ち向かうことはできません。私たちには、ただ、イエス・キリストの名しかないのです。ただそれだけで勝負するには覚悟が必要です。それは牧師であっても伝道師であっても、教会員であっても同じです。しかし、私たちはこれだけを持ってこの世界に出ていきます。なぜなら、イエス・キリストの名には力があるからです。ある人には癒しをもたらす力があるのです。わたしもその事は身近なこととしてよく知っています。しかし、病気や困ったことをただ解決するためだけの信仰では信仰とは呼べないでしょう。イザヤ書第40章には慰めのメッセージが語れます。慰めを必要とする人が目の前にたくさんいたに違いない。しかし、そこで預言者が語った慰めは、罪の赦しによる慰めでした。「あなたの罪は赦された。あなたは救われた。」イエス・キリストの名によって、私たちはこの福音を生き、宣べ伝えます。しかし、誰もがその言葉を喜んで聞いてくれるわけではありません。それは当然です。この世界は痛んでいるのですから。必ずしも「美しい」とは言い得ないこの世界の現実、教会の現実、自分自身の現実に直面します。イエスは、この世界に出ていく私たちに、そこでキリストの名による罪の赦しの福音を告げるように、そのための十字架を背負うようにと、私たちを招いておられるのです。その十字架は重い。しかし、その重みに傷つくことによってしか、自分が赦された罪の重さを知ることはできません。ペトロとヨハネはイエスの名による福音を告げるときに言いました。「私たちを見なさい」と。伝道は「私を見てください」という言葉から始まります。この私の罪さえも、神は赦してくださったのです、という言葉です。この言葉を告げる者は美しい。イエスの美しさによって美しくなる。だから私たちは言います。「キリストがあなたの罪をも赦してくださった。」聞く人は、まだその事を知りません。なぜなら、世界が痛んでいるからです。赦しや愛を告げる言葉に飢えているのに、聞こえてこないからです。本気にしない。しかし、福音を携える者は本人に先だって知っている。神はあなたを救ってくださった、と。キリストという光に照らされた美しい姿を知っているのです。
2021年1月23日(詩編27)
詩編27 私が主に願った一つのこと 私はそれを求めよう。 命のあるかぎり主の家に住み 主の麗しさにまみえ 主の宮で尋ね求めることを。(4節) 詩編の中にはたくさんの麗しい言葉、美しい言葉があります。その中でも特に輝いているのが、この言葉であると思います。主の家に住み、主の麗しさに...

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1517 年 10 月 31 日にマルティン・ルターという修道士がヴィッテンベルク城の教会の門扉に 95 ヶ条からなる公開質問状を張り出しました。やがて、その日はプロテスタント教会から宗教改革記念日と呼ばれるようになりました。教会改革のうねりは国境を...
