2017年2月12日日曜日

マタイによる福音書第9章1から8節「担架の教会」

「教会」というのは、どういう集団なのでしょうか。今朝の聖書の物語に登場する中風の人とこの人を主イエスのもとへ連れて来た仲間たち。この姿にすでに教会が現れていると私は思います。教会ってこういう場所ですし、今日ここでキリストを礼拝している私たちはそういうキリスト教会の一員です。あの仲間たちは中風で体を動かせない友人を主イエスのもとへ連れて行って、とにかくいやしてもらいたかったのでしょう。彼を担架に乗せて運んだようです。教会は今もそういういやしのミニストリーを大切にしています。私たちの教会で少し前に始まった学習塾もそういう地域社会へのいやしの一つです。そうやってご自分のもとに連れてこられた人に、主イエスはおっしゃいます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」この「元気を出しなさい」というのは安心するとか勇気を出すといった意味があります。しっかりとした地盤があるということです。いやしを必要とするとき、自分の地盤が実は怪しかったことに気づきます。ある人は自分の不完全さに不安な気持ちになります。子どもの成長が心配になったり、親との関係に苦しんだりもします。やるべきことが多すぎて忙殺されることもありますし、体調が悪く、肉体の不調に苦しむこともあります。年をとったためにおいて弱った心身を受け入れられないこともあります。立っている場所がぐらつくのです。主イエスは「あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。私がお前のための地盤を据えるから、大丈夫」と言ってくださるのです。罪の赦しはリフォームではなく新築です。キリストは私たちをまったく新しくしてくださいます。どうして私たちは底無し沼に沈むように、不安になってしまうのか。「あなたの罪は赦される」とキリストがおっしゃっているのを聞いて初めて知ったのは、実は自分が罪人だということでした。喜びを失って生きてきたことでした。なぜ、喜びを失ったのか。主イエスが示された愛に照らして、私が愛を失っていることが明らかだからです。神を愛し、尊ぶことなく、自分を神に造られたものとして愛し、大切にすることもできず、まして自分のように隣人を愛する真実の愛の心に生きることもできなくなっているのです。そのために真実に生きる喜びを見失い、むしろ自分の惨めさに生きるようになりました。それは、神の愛の定めに背き、現実に愛に生きることができない私自身の罪にこそ、この惨めさの原因があると言わざるを得ません。しかし、主イエスは言ってくださっているのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」子よという本当に慈しみに満ちた呼びかけです。安心して良い、勇気を出せ、ここにしっかりと立てる。お前の罪は赦されている。キリストはわたしたちに向かってそう宣言なさいます。この言葉を聞いた律法学者は呟きました。主はそのつぶやきを知って、心の中で悪いことを考えているとしてきなさいます。悪いことというのは、特別にこの人が性格が悪いとか意地悪だとかいうことではなくて、キリストの赦しを信じないことです。ですから、イエスは続けて「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われました。私たちも自分に問うたら良い。罪の赦しの言葉は、私に何を意味しているのか、と。教会はこの罪の赦しの言葉を共に聞く罪人の集団です。この罪人の群れの中に、どうか帰って来てください。   

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...