2017年3月26日日曜日

ルカによる福音書22:31〜34「私たちの信仰のために祈られる主イエス」

今日も神に召され、生かされております。自分の願いではなく、神の御心がなるようにとの祈りに導かれております。主イエスによって、私たちの人生が定められています。どのように定められているのか。それを知ることで、悔い改めの道をたどりたいと願っております。本日は、みなさまと共にルカ福音書にあるペトロにかけられた主イエスの言葉に耳を傾けております。▼ペトロは三度、主イエスを知らないと言いました。このことは4つの福音書すべてに描かれていることです。ルカ福音書では「信仰が無くならないように祈った」と主イエスがペトロのために祈りをしたことが書き残されている。主は弟子の信仰のために祈られるお方だと言います。▼説教黙想アレテイアにてこの箇所の黙想があります。人の覚悟と信仰の関係を論じています。信仰とは決して人の覚悟や信念などではないと黙想者は言うのです。ペトロが三度、主を否定したとき「ペトロの信仰は一旦失われた」と思われることがあります。三度、否定したのですから、この時点でペトロが信じているとは思えないということです。しかし黙想者はここで主イエスの祈りによってペトロの信仰が保たれていると言うのです。主の祈りは確かだからです。ペトロの信仰は主イエスの祈りで保っている。信仰というものは人の信念や覚悟によって成り立つものではない。そのことを明らかにするのです。▼これを読みました時、私は心動かされつつ、一つの聖句を思い出しました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。(ヘブ11:1)」見えない事実。ペトロが思い描いていたであろう信仰は、崩れ去っていきます。しかし、主イエスの言われる信仰はペトロの内に確かにあり続けました。主イエスがペトロのために祈られていたからです。とするならば、信仰というものは、自分の信念や覚悟が打ち砕かれる時にも、むしろそんなものとは関係がなく、ただ主イエスが祈っていてくださるから、人に与えられているものだと言うほかありません。▼それを知るとき、私たちは信仰を持っているということを誇ることができなくなります。人の覚悟というものの正体が暴かれます。このときのペトロの覚悟は、誰が偉いのか?という弟子たちの議論の後に出て来ました。さらに辿ると、主イエスが「裏切る者がいる」と仰ったところから、この議論が始まりました。弟子たちは「私は裏切らない」という主張の後、「私は偉いのだから」と言いたくなった。「私だけは大丈夫だ」と思いたかった。そこから生まれてくるペトロの言葉が、「(しかし)主よ、覚悟はできています」という言葉であったのでしょう。とりあえず自分は大丈夫。そう思うペトロに対して、立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい、と主イエスは言われているのです。▼信仰が主の祈りによって与えられている。兄弟を力づけるために与えられている。このような信仰が今、私たちに与えられているのです。   

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...