2017年3月5日日曜日

ルカによる福音書第4章5から8節「人間が怪物にならないために」

私は小さな頃から教会に通っていて、今朝の話は何回も聞かされてきました。おとぎ話の一つのようなイメージがついていたように思います。しかし、最近になってずいぶんと印象が変わりました。というのも、主イエスを誘惑した悪魔は言うのです。「この国々の一切の権力と栄光を与えよう。」国々と言っています。世界中の国です。ずいぶんと政治的ではないでしょうか?主の祈りにも、「御国を来たらせ給え」という祈りがあります。ここでも「国」と言っています。これも政治的な響きがある言葉です。日本特有のことなのか、外国でもそうなのかは私にはよく分かりませんが、私たちは政治的な話はできるだけ避ける傾向があります。特に教会はそうです。教会は政治団体ではないので、当然と言えば当然です。何党の支持者でもいられる場所です。しかし、例えば今の米国の教会から聞こえてくる声を聞くと、ある人たちはトランプ大統領を厳しく批判しています。単に政治の声明を出すのではなく、信仰者としてどう考えるのが良いのかを考え、声にしています。私たちの信仰には「この国々の一切の権力と繁栄」が関わります。しかも、聖書は、それらは悪魔に任されていると言います。悪魔がこれと思う者に与えることができるのだと言うのです。悪魔は「この国々の繁栄」と言います。繁栄というのは、栄光と言っても良い。この世の栄光です。トランプ大統領は米国を再び偉大にしようと言いました。栄光の幻を見せます。私たちの国はどうなのでしょう。かつて、大東亜共栄圏という幻がありました。あるいは、世界第二の経済大国という幻もありました。美しい国という栄光の幻もあります。聖書を見ると、恐ろしいことに、悪魔の誘惑は弱さを試すものではありません。自堕落にさせる誘惑ではなくて、その人の強さを試す誘惑です。私たちは、自分のできないことではなくて、自分の力の範囲内のことをするように誘惑されます。力が強い方が誘惑も強い。もっと強く、もっと大きく、もっと豊かに、もっと偉大に!悪魔はそのように誘惑します。そのために私を拝んだらいい、と言います。それが人間にとって本当に救いになるじゃないかと誘います。注意してください。悪魔は黒い服を着て、しっぽが生え、さすまたを持った格好では現れません。ルターは言いました。「イエス・キリストが私たちと同じ人間になって、ご自分を十字架につけられたということによって、キリストは、まことに不幸な、傲慢な神々、偶像を、本当の人間に変えておしまいになった。つまり、あわれな罪の人間になさったのである。」キリストが人間になって、十字架にかかったから、悪魔の正体が暴かれたと言います。それは、あわれな罪の人間、しかし、この世界では礼賛される栄光に満ちた人間です。悪魔は私たちの栄華を求める罪の空気そのものです。私たちが今求めて生きている栄光は、神を追い出して成立する悪魔の栄光ではないでしょうか?しかし、キリストが人間になられて、十字架にかかったからには、悪魔の正体はもう明らかになっています。キリストは私たちが悪魔の栄光ではなく、神を神として拝むところに現される栄光に生かしてくださいます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。私たちは神様を本当に神様らしく礼拝するために生きています。そこでこそ、私たちが怪物にならず人間らしく生きられると信じます。洗礼を受けたあなたはこの世にある神の国の国境線なのです。   

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...