1節の表題を見ると、サウル王に殺されそうになったダビデが、王の手下に家を見張られていたときの祈りとある。敵に見張られているというのはつらい。世間という目はまるでオーウェルの言う「偉大なる兄弟」の目のようだ。しかし、この詩編の興味深いのは10節で、ここでは祈り手が神を見張っている。神は私の砦の塔だから。神が守ってくださるよう、見逃さないように注視する。信仰者の目は世間の目の中でも神に向く。そこに慰めがある。
2025年10月28日の聖句
破滅に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊。(箴言16:18) イエスは言われた。「人から出てくるもの、これが人を汚す。」(マルコ7:20) 驕りや高慢は、本当に巧妙に、そして簡単に忍び込んできます。私はすぐにそういう悪い心の侵入を許し、負けてしまいます。どうして驕ってし...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...