2017年3月12日日曜日

ルカによる福音書4:9〜13「瀬踏みの信仰から卒業しよう」

主イエスが悪魔から受けられた三つ目の誘惑です。悪魔は主イエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と誘います。なぜ、そのようなことを言うのか?ここはエルサレムの神殿でたくさんの人が集まってきています。何をしに来ていたのか?祈りに来ていたのです。神に救いを求めてやって来ていたのです。そういう人たちに前に、神から遣わされた救い主としての証拠を見せてやればいい、と悪魔は誘います。しかも、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守られる」と聖書に書いてあるじゃないか、とまで言います。悪魔は聖書の言葉でさえ誘惑をする。主イエスがお受けになった誘惑は、私たちにとっては「どういう救い主を求めているのか」という問いでもあります。本当にこの方を信じていて良いのか、本当にそう信じて良いのか、信じるに価するのか、証拠はあるのか?そういう問いです。主イエスもまた聖書の言葉を引用して答えられます。「あなたの神である主を試してはならない」。これは、かつてエジプトで奴隷だったヘブライ人たちがモーセに導かれて荒れ野に出たとき、飲み水がないと言って不満が爆発したときのことです。神はモーセに奇跡を起こさせて彼らに飲み水を与えます。しかし、言われるのです。「あなたの神である主を試してはならない」と。試すというのは、相手の愛を試すことです。本当にこの人について行っても良いのか不安になって、信じられず、証拠を求めます。昨日は結婚式がありましたが、もしも試験と証拠によって結婚生活を進めようとしたら、家の中は疑心暗鬼に包まれ殺伐とするでしょう。愛と証拠は並び立ちません。もしも、主イエスが悪魔の誘いに乗って、人々に神の子である証拠を見せるために神殿の屋根から飛び降りていたら、どうなったのでしょうか。そのとき、悪魔が言うように天使が現れたとしたらどうなったのか。それを目撃した人はすごい奇跡が起こったと言って賞賛し、イエスを信じたかも知れません。でも、それに一体どんな意味があるというのか。そんな奇跡が起こって明らかになるのは、ただ主イエスがすごい方だと言うことだけで、今悩み、苦しみ、悲しみながら神に祈るために神殿にやって来たこの私の無力とは無関係です。もしも主イエスがあの誘惑に乗っていたとしたら、主イエスは、ただ強い者だけのための救い主、この世で多くの人が賞賛する成功者のためだけの救い主になっていたことでしょう。ここで言う「強い者」とは、誰でも成功だと思えるものを手にした人のことです。教会でさえよく聞きます。自己実現できた人のことについて、それは神さまの恵みだとか、成功は神の祝福だとか。そういう物の見方は悪魔の誘惑に負けてはいませんか?主イエスは飛び降りませんでした。瀬踏みをするように神の愛を確かめながら生きることを退けられたのです。「あなたの神である主を試してはならない」と言われた悪魔は、時が来るまでイエスから離れます。悪魔が再び現れる「時」。恐らく、イエスが十字架にかけられるときでしょう。そのときにも主イエスは罵られます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」しかし、やはりこの時も主イエスは奇跡を起こされない。弱い者の救い主になるためです。捨てられた者を救うためです。惨めな罪人である私たちを救うことができるのは、十字架の上で無力になられた救い主だけだからです。   

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...