2017年4月11日火曜日

マルコによる福音書14:22-26(2017年受難週祈祷会・火曜日の奨励)

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコによる福音書14:22-26)

レオナルド・ダ・ビンチを初めとして多くの画家が描いてきた「最後の晩餐」を伝えています。しかし、ここに書かれているのは「最後の」晩餐というだけではなくて、それから約2000年間、教会が繰り返し祝ってきた食卓の始まりでもありました。即ち、私たちも主の日で繰り返し祝っている聖餐、主の食卓の起源です。
聖餐は考えてみれば奇妙な食卓です。主イエスは裂いたパンを「これは私の体である」と言ってお渡しになりましたし、杯は「これはわたしの血」だとおっしゃっています。以前時代劇ドラマ化何かで、江戸時代のキリシタンがそうやって聖餐を祝っているのをのぞき見た人々が、あの人たちは食人をしていると言って恐れたという場面を見ました。確かにそう聞こえる言葉です。教会は、聖餐において、一体何をしているのでしょうか?
今日は時間も限られているので杯だけを思い巡らします。杯、本来はワインを入れます。未成年やアルコールを受け付けない人もいるので、私たちはぶどうジュースを使っています。主イエスはこの杯を、「わたしの血、契約の血」と言われました。古代イスラエルでは契約に際して動物の血が流されていました。契約を破ればこの動物のようにされるといった意味や、動物の命を犠牲にすることで契約の神聖さを表現すると言った意味合いがあったのだろうと思います。この食卓で主イエスが実際に考えておられたのは、出エジプトの時の神とイスラエルの民との契約です。かつてエジプトで奴隷であった者たちが、今は神の民となった。神のものとなった。そのための契約締結です。そこでも動物の血が流されました。
旧約聖書のイザヤ書53:11にこのような言葉がある。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」わたしの僕とは神の僕、主イエスのことです。この方は罪の奴隷であった私たちを神のものとするために、その罪を負い、血を流し、ご自分の血を契約の血としてくださいました。キリストが流された血は罪の奴隷であった私たちを神のものとするための契約の血です。
聖餐はそのことを繰り返し思い起こし、私たちが神のものとして生きるための食卓です。今週も木曜日の受難週祈祷会で、聖餐を祝います。6時半、10時半、19時と三回の聖餐祈祷会をいたします。そして、日曜日のは復活の主日、イースター礼拝を祝います。そこでも聖餐をいたします。キリストの食卓に私たちが与るために、祈りつつ、御子の御受難を覚え、御子がながされた血を、裂かれたその体を思いつつ、歩んで参りましょう。

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...