2017年4月12日水曜日

マルコによる福音書14:32-42(2017年受難週祈祷会・水曜日の奨励)

マルコによる福音書14:3242
32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 主イエスと弟子たちは契約を結ばれました。主イエスは御自分の肉と血を弟子たちに与えられました。その直後の箇所で、主イエスが弟子たちに向かって「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と仰る。弟子たちは各々「わたしはつまずきません」と言いました。
 その後の話が、今日のゲツセマネの祈りの箇所です。弟子たちを連れて、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、主イエスは祈るためにゲツセマネに行かれました。主イエスはもう少し先に進んで、お一人になり、御自分の苦しみをさらけ出すかのようにして、父なる神に祈られました。
 「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。

 「わたしが願うことではなく、御心に適うこと」もう少し直訳的にしますと、
 「わたしが願うことではなく、あなたが」です。
 「わたしではなく、あなた」

 弟子たちの決意に引き続き、「わたし」という言葉が目立つ形で登場します。しかし、弟子たちのそれとはまったく異なる方向で主イエスは「わたし」と言う言葉を出す。
「わたしはつまずきません」と誓った弟子たちに対して、主イエスは「わたしではなく、あなたが願うことを」と祈ります。
 わたしが願うように、この苦しみが取り去られれば、きっと楽になる。これが無くなればきっと幸せになる。そういう願いがある中で、主イエスは「わたしが願うことよりも、父なる神が願うことが信頼に値することだ」と祈られたのです。

 父なる神は願いを持っておられます。
 私たちのために、願いを持っておられる。
 それは私たちが願うことよりも、信頼してよい願いです。

 弟子たちは主イエスが祈られている時に、寝ていました。実際に眠っていたのと同時に、父なる神に願いがあり、それに信頼するという態度において眠っていたのでしょう。「わたしはつまずきません。わたしは誉められる弟子になりたい。」と自分の願いにこそ信頼していたからでしょう。
 しかし、主イエスは私たちのために祈られ、私たちに祈りを教えてくださいました。「御心が成りますように」と。あなたの父なる神が、すでに願いを持っている。それが成るように、主イエスが誰よりも先に祈ってくださいました。この方に、私たちも祈られております。どのような時でも、父なる神の願いが成就する。そのことに信頼して、今日の一日も始めたいと願わされます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...