2017年4月23日日曜日

ルカによる福音書24:13-35「心、燃える道」

 二人の弟子たちがエマオという故郷に向かって歩んでいます。2日前に起こった出来事について会話を交わしながら歩んでいます。あまり楽しそうではありません。自分たちの反省と、これから先の生活について話していたのでしょうか。「エマオ途上」とこの個所を呼ぶことがありますが、途上というよりは、とぼとぼと故郷に帰る道のりです。本当はこんな道を歩きたくない。この弟子たちの姿はまるで私たちの姿のようです。真剣に一日いちにちを考えています。真剣さゆえに、会話も喧嘩腰のようなことにもなりかねない。本当ならばもっと前向きな話をしたいのに、何かに引っ張られるかのように後ろ向きの言葉が出てしまう。そんな傍らにある方が共に歩みを始められる。主イエスです。しかし、二人の目は遮られ、主イエスであることが分かりません。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」問いかけられ、二人の弟子はいよいよ暗い顔に。そして立ち止まります。
 「あなたはエルサレムに滞在していながら、ご存知ないのですか?」弟子たちの説明は止まりません。怒りや悲しみやいろんな感情が渦巻いて、暗い顔をしつつ、言葉が止まらなかったのでしょう。繰り返しますが、この方は主イエスです。弟子たちの思いを知らないはずがない。弟子たちの思いは主イエスが十字架で死んでしまったことに比重が置かれているのか?それもあるでしょう。しかし、それだけではない。この弟子たちは「イエスは生きておられる」という言葉を耳にしています。主は復活なさったようだ!しかし、その言葉にも戸惑いを覚えているのです。復活なさったことは聞かされた。でも、肝心の主イエスは自分の目には見えない…
 どこにイエスさまは、おられるのでしょうか?この弟子たちの叫びは、私たちの叫びでもあります。主イエスの復活を聞いている。でも、顔が暗くなり、立ち止まってしまうような時もある。歴史を通じて、教会に集められた人々が常に問うてきた問です。復活の主イエスと共に歩むとはどういうことなのか?今朝のみことばは、その問いにこう答えます。「それは顔が暗くなり、立ち止まってしまうようなところから始まる歩みなのだ!」と。主イエスは暗くなるような弟子たちと共に歩みをされました。ご自身から近づいて。そして、聖書の話をされる。弟子たちは気づきませんが、心が燃やされていきます。そしてついに、食事の席につき、裂かれたパンを渡されたとき、その方が主イエスであることが分かったのです。そして姿は見えなくなりました。消えたのではありません。もはや見ることに依拠しない信仰生活になりました。

私たちもまた、この物語に生かされています。主イエスは今までも、私たちにパンを裂き渡してくださいました。今もまた、共におられます。これから先も共におられる。静かに心が燃やされる。主イエスが共におられる歩みに導かれております。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...