2017年4月2日日曜日

詩編第88編「ただ暗闇だけが我が友」

深い穴蔵に押し込まれるような嘆きの日、呻きの夜。カーテンを閉じ、布団を頭からかぶって涙を流す。誰とも会いたくないし、会えない。そのようなときには問わざるを得ない。どうして、自分は神を信じているのか。これまでの信仰も、神ご自身をも否定したくなる。説明がつかない悲しみに覆われながら、呻くようにして神を呼ぶ。「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります。わたしの祈りが御許に届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。」しかし、神は答えてくださらない。祈っても空しい。キリスト者であれば誰にだってそういう経験がある。それでは、なぜ私たちは神を信じているのか?このようなことを口にするのは不信仰ではないかとどこかで思いながらも、神に文句を言ってみたり、ブツブツと呟いたり、「どうして」と何度も問い質したりする。4節に「陰府」という言葉がある。必ずしも死後の世界ということではない。神から切り離されたところ、という意味だ。穴に降って力を失い、死人のように墓に横たわる私。神は、どんなに呼んでも応えてくださらない。その事実こそが苦しみの急所なのだ。しかも、それだけではない。「あなたはわたしから親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。」この詩編作者に何が起こっていたのかは分からない。病気であったとも言われている。そうなのかも知れない。病気だとしたら、古代社会では病気は神の罰だと考えられていた。だから、病に苦しむこの人を周囲の者たちは捨てたのかも知れない。それでも、来る日も来る日も神を呼び求めている。「主よ、あなたを呼び、あなたに向かって手を広げています。」この詩編には明るい言葉が殆どない。いや、僅かに見られる。驚くべき御業、感謝、慈しみ、まこと、恵みの御業。どれも礼拝を思わせる言葉だと思う。かつて、私は仲間と共に神を礼拝し、喜んで賛美し、祈ってきた。しかし、今はそうではない。「墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。」言葉の明るさと裏腹の現実は、神から完全に断ち切られた悲しみのどん底なのだ。朝ごとに祈り、神に向かうけれど、私を取り囲む現実は神の怒りであり、神の憤り。そうとしか考えられない現実なのだ。今、わたしに親しいのはただ暗闇。なぜ、これほどまでに暗い詩編を今日読むのか。一つには、主の御苦しみを覚えるべき受難節だから。もう一つは、この詩編で綴られている言葉は私たちの悲しみそのものだからだ。神が見えなくなり、祈っても空しい、それどころか神を信じているからこそ悲しい。それが私たちの実際だ。もしかしたら、私たちはあまりにも明るく、悲しみのない信仰こそが「信仰」だと思い込んではいないだろうか。祈っていればいつか状況は好転し、信じていれば病気はいやされ、問いには答があり、私たちは強さから強さへと進んでいく。確かに、そういうこともあるだろう。しかし、キリストご自身が通られた道は、そういうものだったのだろうか。むしろ、キリストは十字架の上で叫ばれたではないか。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。キリストは神に捨てられた者のいる暗闇の中におられる。どん底の陰府で、キリストは私たちと出会ってくださるのだ。だから、涙を流そう。今、世界は涙を忘れている。そこに世界の痛みもまたあるのだ。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...