2017年5月7日日曜日

ヨハネによる福音書21:1-14「この手が覚える恵みの重さ」

今朝は復活節の話、わたしが大好きな聖書の話です。ペトロたちが復活したキリストと三度目に会った。キリストはこの時、何と朝食の準備をしてくださった。パンと焼き魚です。主イエスは私たちの朝ご飯の心配までしてくださいます。それは、このときペトロたちが疲れ果てていたからです。前の晩、ペトロは仲間たちに「私は漁に行く」と言って、仲間たちは彼に「私たちも一緒に行こう」と言った。細かいようですが、ペトロの「行く」と仲間たちの「行く」は元になった動詞が異なります。仲間たちは通常の「行く」ですが、ペトロは「出ていく」とか「退く」という意味もある言葉です。ペトロはきっと、疲れ果て、今までの道を退いて「漁に行く」と言ったのではないか。私はそう思います。私たちも同じなのです、ペトロと。仕事上の責任が重かったり、家には介護しなければならない家族がおり、看病を必要としている家族がいたりする。そこに終わりは見えません。育児だって、過ぎてみれば楽しかったと言えても、渦中の疲れは厳しい。自分の愛の乏しさや周囲の無理解に途方に暮れる。『人はみな、けなげに生きている』という、カトリック教会の司教がこれまで出会った困難な中に生きる人々を紹介した本があります。ある一人の修道女が登場します。一年ほど、修道院を出て生活をしています。疲れ果て、心療内科に通っています。もともと人と一緒にいるのが苦手な性格で、そこに年老いたシスターの介護をしなければならず、心のバランスを崩してしまいました。ストレスのはけ口として自傷行為を繰り返してしまいました。修道院の外での生活は一種の転地療法として意味があった。やがて彼女は自分の生育過程をもふり返りながら、キリストが闇の中に飛び込んできてくださったこと、闇があるからこそそこにおられること、自分の闇を恐れる必要がないことを知るようになります。ペトロは舟を漕ぎ、網を降ろしましたが、何も獲れませんでした。ますます疲れたことでしょう。しかし、そんなペトロの岸辺に立つ人がいた。イエスです。しかし、ペトロも仲間たちもそれがイエスだと気付かない。それでも彼らはイエスに言われるままにもう一度網を降ろし、網にはおびただしい魚がかかり、その時舟の中の一人が「主だ」と叫び、ペトロはとっさに服をまとって湖に飛び込んで、岸辺まで泳いだ。疲れ果てた私の人生の岸部に立つキリストと出会ったのです。米国の公民権運動を指導したキング牧師は、命を狙われ、疲れ果て、勇気を失い、意気消沈してしまったことがありました。そういう思いを率直に告白した祈りが残っています。しかし、キングは祈りの果てに内なるキリストの声を聞きます。「正義のために立て。私は世の終わりまで共にいる。」わが人生の岸辺に立つキリストと出会い、キングは変わったのです。もう恐れず、前に進んだ。岸辺におられるキリストと出会うと、この手に握っていた「網」が変わります。私たちは個人的な慰めを得るように神に招かれたり、経済的満足を得ることを求められたりしているのではない。神に愛されていることを喜ぶとき、その喜びをもはや自分だけに留めてはおけないのです。「舟の右側に網を打ちなさい」とキリストは言われる。疲れ果てたあの人にもキリストを運ぶように、と。 

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...