2017年6月4日日曜日

ヨハネによる福音書20:19-23「イエスの息吹に生かされて」

今朝の聖書の言葉はヨハネによる福音書のペンテコステ(聖霊降臨)の記事だと言われています。主イエスが十字架にかけられ、甦り、天に昇り、そしてペンテコステの日に神の霊(聖霊)が弟子たちに降り、教会が生まれました。22節に「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」とあります。イエスが弟子たちに息を吹きかけます。新約聖書が書かれたギリシア語でも、旧約が書かれたヘブル語でも、霊、息、風などは同じ単語で表します。「いのち」という言葉の響きを持つ字が使われています。それで、今朝の話は、ヨハネが伝えているペンテコステの記事、弟子たちにキリストの霊(あるいはキリストのいのちの息)が与えられた話だと言われているのです。カトリック教会のある司祭がこの時の出来事をこのように言い表しました。「ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていた弟子たちが、イエスの吹きかける霊によって変えられ、心臓の鼓動の有無とは別の新たないのちを与えられる。そうされた弟子たちが歩む道はイエスの歩んだ道である。『人がその友のためにその命を捨てること、これよりも大きな愛はない』(15:13)という言葉を自ら実践したイエスの道である。」素晴らしい言葉だと思いました。同時に、わが身をふり返ると恥ずかしくもなる言葉でした。「友のために命を捨てる」と言います。しかし、例えば誰かと言い争って自分の主張を変えることができない、そこでは自分の自我が生き続けています。もちろん生きていれば自我を殺すことなんてできません。しかし、私は洗礼を受けたときに一度キリストと一緒に死んだはずです。それにも拘わらず、自分の意地がしぶとく生き続け、いろいろな人を傷つけている。どうして、こんなにも自分にしがみついてしまうのだろうか。19節に弟子たちがユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたと書かれています。きっと、彼らが家の戸と一緒に閉めてしまったのは、自分たちの心の戸でもあったのでしょう。世間を恐れ、相手を恐れ、戸を閉めて閉め出す。そうやって戸を閉じたとき、知らぬ間に神をも締め出します。毎日新聞がかつてヘイトクライムの突撃隊長と呼ばれていた人のインタビュー記事を掲載していました。私と同い年の人でした。勤めていた運送会社の倒産や事業の縮小で職を転々とし、知り合った人たちの影響でアジアを見下すことを覚え、3.11後に原発問題で在日コリアンの陰謀論を信じ込み、ヘイトスピーチにのめり込む。デモが居場所になったが暴行事件での逮捕を切っ掛けにデモに参加しなくなり、かつての仲間からののしられ、疲弊した彼を救ったのは在日コリアンの言葉だった。「なんでも俺に言えよ」と言ってくれた。私たちの言葉で言えば、赦しを経験したのです。それで、彼は変わった。主イエスは弟子たちに言われます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」あまりにもまぶしい言葉です。自分に人の罪を赦せるのかと考えるとどうしようもなくなる。しかし、立ち止まって考える。なぜ、私たちは戸を閉ざすのか。怖いからです。相手を信じられないからです。イエスを裏切ったからです。そんな私たちのところに主は来られ、「あなたがたに平和があるように」と罪の赦しを宣言してくださる。キリストがいなければ生きられない惨めな罪人として、私たちは神の前で共に祈ることしかできません。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と。キリストはそのために赦しの霊である聖霊を与え、私たちを心臓の鼓動の有無とは別の新しいいのちに生かしてくださっているのです。   

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...