2017年8月27日日曜日

ルカによる福音書第10章17から20節 「キリストを信じる喜び」

 「王様と農家」という例話を用いて奨励をしたことがありました。神学生の頃の事です。思い起こしながら、かつて自分が作った奨励を読みました。拙い言葉使いで恥ずかしい思いもしましたが励まされる思いもしました。その例話とは、とある農家が王様にジャガイモを贈るという話です。とても素晴らしいジャガイモが出来た。「今年のジャガイモは甘くて素晴らしいものができました。どうぞお召し上がりください。」王様は食べます。誇らしげな農家の顔を見つつ、そのジャガイモを食べた王様は、そのおいしさに感動し喜び、農家を褒めました。そして褒美として、なんと馬を一頭プレゼントしたのでした。その後、それを横目で見ていた護衛兵は、その農家からジャガイモを買い占め、王様にプレゼントします。けれども、王様は護衛兵には何も与えません。その理由を王様に聞くと、「農家は私の喜びのためにジャガイモをくれた。お前は、お前の喜びのためにジャガイモを私にくれたではないか。」と護衛兵は言われてしまう。
 本日お読みしましたルカ福音書の箇所。そこでは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と主イエスは言われます。悪霊が屈服するような力を喜ぶのではなく、名が天に記されていることを喜べ、と弟子たちを注意する。この言葉は私に一つの気づきを与えます。自分がいったい誰であるか。誰であろうとしているか。自分の能力や持っている物で自分を飾ろうとしているのではないか。自分に力があるときは、順風満帆のようだけれども、病気、怪我あるいは老いによっていとも簡単に自分を見失ってしまう不自由さを持っています。あるいは、あの護衛兵のように自分の働きが認められない時に、不平不満を言う不自由さを持っています。自分の力に依存する生き方は、不自由です。
 けれども、主イエスは私たちをそこから解き放ってくださる。喜ばしい警告をくださいます。「悪霊が屈服するからと言って喜んではいけない。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」天に名が書き記されているのは、何かができるからという訳ではない。何かを持っているからでもない。もう既に書き記されている。主イエスは私たちにそれを教えてくださいました。焦る必要もない。自分の力に一喜一憂する必要もない。
 すると、自分が何のために働き、何をなすために生きるかということが変わってきます。今年の始めAYGを準備する上で柳沢美登里姉にこのような言葉を頂きました。「何よりも主の言葉に聞き、与えられた言葉に忠実に歩み続けてください。それが未来に残っていくものですから。」私たちのすることは、ほんの一瞬のもの。すぐに消えてしまうようなことかもしれない。けれども、未来に残っていくことを主はなさる。それは、私たちの名が既に天に記されていることを知る平安の中で生まれてくる。この喜びに生きる生活が私たちに用意されています。今週も主イエスを信じる喜びに生かされることを願って歩んでまいりましょう。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...