2017年8月20日日曜日

創世記第1章24から31節「出会いの喜び」

月曜日に学生時代からの友だちが尋ねてきてくれました。1歳半を少し過ぎた息子さんがいます。子育てのことをいろいろと語り合いました。子育てには悩みが尽きませんが、喜びはそれ以上にたくさんあります。自分の子どもといえども、そして赤ちゃんといえども他人で、自分ではない他者との出会いなのだと自覚することは、大切なことだと思います。出会いには「鉢合わせ」のような痛いハプニングも起こりますが、思っても見なかった喜びを知ることもたくさんあります。人間は、もともと、出会いに向けて造られました。創世記第一章を見ると、神は初めから人を男と女とにお造りになりました。つまり、異質な他者が最初からいたのです。それが大事です。異質な存在と出会ってこその喜びがある。出会いに伴う傷も悩みもあるけれど、それでも本当に心を許し、愛し許し合える出会いを私たちは求めています。古代教会の偉大な指導者となったヒッポのアウグスティヌスは、若い頃にはそういう関係を女性に求めていました。しかし、空しさが晴れることはなかった。やがて母が信じていたキリストと出会い、信じるようになります。後に彼は自分の半生を綴った『告白』という自伝の中で言います。「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」と言いました。彼の体験的な言葉です。本当にそうなのです。なぜなら、私たちは神にかたどって創造されたからです。「男と女に創造された」というのは、異質なものとの関係の中で生きるということでしょう。私たちは関係の中で生きます。しかも、神にかたどって造られた私たちは、神との関係の中で生きるまでは安んじることができない。ちょうど私たちの心には神さまにしか埋めることのできない穴が空いているようなもので、他の物で満たそうとしても、空しさが募っていくばかりです。外国に行くと、自分は日本人だと却って自覚します。異質な他者と出会うと自分がナニモノなのかを知るようになる。神と出会ったとき、私たちは自分がナニモノなのかを独特なしかたで、はっきりと知ります。つまり、自分は神に造られた神の子どもなのだと知るようになる。その時、私たちは知ることになります。神は私が神と出会いたいと思っていた以上に、私と出会いたいと願っていてくださるのだと言うことを。大昔に「こんにちは赤ちゃん」という歌がありました。「こんにちは、あかちゃん。初めまして、わたしがママよ。」そうやって赤ちゃんとの出会いを喜ぶ。まして、神さまはどんなにか私たちと出会うことを待ち望んでくださっているでしょうか。私たちが神の子だということは、神は私たちがどんなにダメでも私たちを喜んでくださっていて、私たちの存在を楽しんでくださっているということです。ちょうど、あの失われた息子を喜ぶ父のように。あの息子は父に背いていたことに気づいて惨めに家に帰ったとき、奴隷にしてほしいと言おうとしました。でも父はそう言わせませんでした。この世には私たちを奴隷にしようとするものがたくさんあります。私たちの欲もそうです。性欲、食欲、所有欲。神に造られた素晴らしい感情でもありうるし、私たちを奴隷にすることもある。それは私たちが神との出会いを拒むからです。神のみもとに帰りましょう。神は私たちを待っていてくださいます。私たちと出会うために。私たちは教会というキリストの体を通して神と出会えるのです。

詩編第93編「主こそ王」

主は確かだ。大地よりも、海よりも。主の御座は固く据えられている。主こそ王。私たちにとって本当に確かだと思っているものは、一体何だろうか?大水の轟きよりも力強く海に砕ける波、それよりも神は力強い。実際に、私たちはそのような生活をしているのだろうか?大水に恐れをなしているのではない...