2017年8月6日日曜日

マタイによる福音書第14:13-21「食べて、満腹。このすばらしい時間!」

先週の木曜日からアジア青年交流会(AYG)が開かれ、香港、韓国、フィリピン、L国、カンボジア、日本の青年たちが代々木に集結し、そこで出会い、心を合わせて神を賛美し、お互いの課題を知り、お互いのために祈っています。ほんの10日ほど前まで、全員が来られるかどうか分かりませんでした。それだけに、一堂に会している青年たちの姿は、もうすでに神が起こしてくださった奇跡であると思います。AYGのテーマとする聖書の言葉は今朝の招きの言葉と同じです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)」神を信じて、お互いを「兄弟、姉妹」と呼ぶ者たちが共に座っている。何という恵みでしょうか。カンバーランド長老教会は今から207年前に米国南部の田舎で生まれました。設立後41年で既に最初の宣教師を海外に派遣しています。爾来、数多くの宣教師が海を渡り、アジアにもカンバーランドの教会がたくさんあります。その姉妹教会の青年たちが今朝こうして共に座っている光景は、神の恵み、神がくださった喜びです。金曜日にはワークショップを行い、互いの課題や宣教の取り組みをシェアしました。日本は今でもキリスト者の割合は人口の1%以下です。日本の中では超マイノリティです。数十年前はもう少し状況が違いましたが、残念ながら今のキリスト教会が日本社会やその価値観に与えるインパクトは、ほとんど皆無です。神に申し訳なく、慚愧の念に堪えません。しかも、それはカンバーランドだけではなく、日本のほとんどの教会の現状です。弟子たちは主イエスの後についていって、人里は離れた所にいて、そこにはやはり主の後を追ってきた大勢の群衆がいました。彼らはそこで自分たちの無力に悩んでいたのではないかと思います。主イエスは深い憐れみをもって人々をいやし、人々も主イエスを必要として集まって来ます。そんな大群衆を見て、無力感に襲われたのではないでしょうか。こんな人里は慣れたところではなく、もっと別の場所なら。自分たちにもっと力があれば、お金があれば、もっと良い事できたのに・・・。だから、彼らはお腹を空かせた群衆を見て、主イエスに、彼らを解散させてくださいと進言します。そうすれば、村に行って食べ物を自分で調達できましょう、と。しかし、主イエスは「行かせることはない」と言って、あなたたちが食べ物を与えたらいいとおっしゃる。そんな話はむちゃくちゃなのであって、彼らは言うのです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」もしもここじゃないどこかなら。もしももっと蓄えがあったら。もしももっと献金が、もっと人が・・・。もしも○○があったなら。弟子たちはそうつぶやきました。ここにはこれしかない、と結局は神のせいにする。それは私たちにもよく分かる気持ちではないですか?しかし、主イエスは驚くべき事をおっしゃいます。「それをここに持って来なさい。」ここ、つまり主イエスのもとへ。主がおられるところで、新しい、素晴らしいことが起きる。イエスはそう言われるのです。私たちの発想は、「ここにはこれしかない」です。しかし、主はそれをわたしがいるここへ持ってこいと言われる。そして、その小さなパンで5000人を養われました。私たちは小さいけれど、神が用いてくださるとき、素晴らしい物語りが始まります。それを共に経験する兄弟や姉妹が隣に座っている。それは何という恵みであり、何という喜びなのでしょう。 

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...