2017年11月5日日曜日

コリントの信徒への手紙一16:21-24「待望する者たちの食卓」

私が高校生になった頃、だんだんと友だちといるのが楽しくなって家に帰る時間が遅くなっていきました。それで、あるとき親に叱られたことがありました。私の父は家族で食事をする時間をとても大切にしていました。その当時の私の心には反発しかありませんでしたが、今ではあの頃の父の気持ちが分かります。家族にとって食事を一緒にする時間はとても大切です。一緒に生活しているのに、一緒に食事をすることもなくなってしまったら、次第に心が離れてしまうのではないでしょうか。あるいは、一緒に食事をしているようであっても、ある人はテレビを見、ある人はスマホを見、ある人は・・・と別々のものに目を注いでいても同じです。食卓は家族を一つにする。まして、神の家族は食事によって一つになります。そのことを大切に考えて、さがみ野教会では何人もの方が日曜日のお昼ご飯を作る奉仕をしてくださっています。日曜日の朝、いつもの礼拝に行く時間よりも早くに教会まで来て食事の準備をするのですから、大変なことです。それだけ、皆で囲む食卓は大切なのです。そして、教会にはもう一つの特別な食卓があります。主の食卓。聖餐です。そうです。主の食卓を囲む時間、それは礼拝の時間です。私たちの教会の礼拝堂は真ん中に食卓を於いて、食卓を囲むことを象徴した配置になっています。私たちは主の食卓を囲むことで一つの神の家族なのです。「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。」主イエスの恵みとこの手紙を書いたパウロ自身の愛、それがあなたたちと共にあるようにと願います。かつて共に主の食卓を囲んだ仲間たちと、今でもキリストにあって一つであると信じているパウロの信仰の告白です。この手紙を受け取ったコリント教会は、端的に言って、バラバラな教会でした。皆の心が一つになっていませんでした。互いに顔を合わせたくないような人もいたかもしれません。しかし、パウロは、共に主の食卓についていることを思い出させながら、もう一度教会をキリストにあって一つにしようと励ましているのです。19節から21節まで、いろいろな人が登場しています。アジア州の教会、アキラとプリスカ、家の教会の人々、すべての兄弟、コリント教会の人たち自身も、そしてパウロも、互いに挨拶し合う。教会は挨拶共同体です。朝、礼拝前に顔を合わせれば挨拶をし、礼拝が終われば挨拶をして別れます。それだけではありません。「聖なる口づけによって挨拶を交わしなさい」と言っています。これは、聖餐のときの仕草だと言っている人がいます。あるいは、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」ともあり、厳しい言葉です。しかし、これも聖餐の式文に含まれていたのではないかとその人は言っていました。だから、これを聞かされたコリント教会の人々は自分たちがあずかっていた聖餐を思い出し、主をこそ愛そうと思いを新たにしたのではないか。また、「マラナ・タ(主よ、来てください)」というのも、聖餐のときの言葉であったようです。こうしてみると、この手紙の末尾には聖餐を思わせる言葉が溢れています。主の食卓にあずかり、キリストのお体と血しおを頂き、分け合って、我らは一つです。パウロはそのことだけを伝えているし、それだけを自分の使命としました。私たちも今同じ食卓についています。主の恵みが私たちにも届けられています。   

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...