2017年12月10日日曜日
マルコによる福音書1:1~8「十字架を見つめるクリスマス」
昨日、近所の子どもたちがここでクリスマスを祝いました。皆、とても嬉しそうに、喜んでいました。さがみ野教会は栗原伝道所として設立された当初から子どもたちへの福音の種蒔きを大切にしてきました。神さまから与えられた教会への使命であると信じています。今朝の御言葉はアドベントによく読まれる箇所です。洗礼者ヨハネが、荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。ヨハネの活動をイザヤ書の言葉で総括しています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」主が来られるから、道を整え、まっすぐにせよと言います。主をお迎えするために。マルコは福音書の冒頭で言っていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」福音です。福音とは、喜びの報せという字です。喜びがここに始まる。そのための道を備えよ。昨日のクリスマス会も、そのための一筋の道であると信じています。伝道は、地道な取り組みです。すぐに成果にはつながりません。しかし、2000年間、教会は地道に御言葉の種を蒔き続けました。悲観的になるのが現実的な物の見方だという風潮がありますが、そうではないのだと思います。主イエスだって、楽に伝道なさったわけではありません。人間のこころの頑固さに嘆き、仲間の弟子たちのふがいなさにがっかりなさりながら、しかし私たちのことを諦めませんでした。どんな時にも、主の道はまっすぐにされなければなりません。主イエスがそれを望んでおられるからです。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコがこのようなことを言います。「主にかける者を主は失望させません。小さな一歩であってもイエスに向かって歩み出すならば、イエスが両手を広げてその到着を待っていることにきづくでしょう。そのときこそ、イエス・キリストに向かって次のように言うときです。『主よ、わたしは間違っていました。何度もあなたの愛から逃げました。しかし、今もう一度あなたとの約束を更新するためにここにいます。主よ、あなたを必要としています。もう一度あがないの腕にわたしを受け入れ、救い出してください。』」だから、私たちは失望せずに、キリストのもとへ帰りましょう。主が両手を広げて待っていてくださいます。神のもとへ帰ることを、聖書は「悔い改め」と呼びます。思えば、「失望」や「諦め」というのは現代を覆う時代精神の一つだと思います。私たちは自分自身のことも他人のことも、簡単に失望し諦めてしまいます。そこには冷めた愛がある。ヨハネは悔い改めを求めます。聖書が言う悔い改めは、日本語の語感から想像しがちな後悔といった意味ではありません。自分のあそこが悪いここが悪いと悩むことではないのです。そうは言っても私たちには後悔することがあるし、悔やんでも悔やみきれないこと、上手くいかないこともある。トマス・ロング牧師は言います。「私たちが記憶の中の経験を呼び起こし、初めに理解していたよりもさらに多くの神の御業の証拠や、それまで知っていたよりもずっと多くの神の恵みのしるしや、これまで表していたよりももっと」多くの神への感謝をそこに発見して、もっと誠実で従順に明日を生きたいとの願いを持つ、今までとは異なった自分を見いだすとき、私たちは悔い改めているのです。」この私に今も働いておられる神を見上げることこそ悔い改めです。そこでは私のためにかけられた十字架が見えてくる。そこに喜びが始まります。
2024年4月26日の聖句
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