2017年12月17日日曜日

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリスマスの讃美歌です。歌いつつクリスマスを迎えるのは、事柄にふさわしいのではないでしょうか。讃美歌259番に「いそぎ来たれ、主にある民」という歌があります。以前の讃美歌では「神の御子は今宵しも」という歌い出しでした。第2節は「賤の女をば母として、生まれまししみどりごは、まことの神、君の君、いそぎゆきて拝まずや」という歌詞でした。あるとき、この「賤の女」という歌詞が不快語にあたるということで「おとめマリアを母として」と歌詞が変わったことがあります。確かに、誰かを「賤しい」と言ったら差別になるでしょうし、使うべきではない言葉かも知れません。しかし、私は少し残念な気がしています。神からご覧になったら人間は賤しい存在です。賤しい一人の人間を母に選び、神の子キリストは私たちと同じ人間として生まれてきました。それこそが福音です。賤しい私たちが献げる賛美を、神は喜んでくださいます。それが神の憐れみです。憐れみ深い神は、今、この世界をどのようにご覧になっているのでしょうか。マタイ18:21-35に、王様から1万タラントンという途方もない借金を赦していただいた男の話が出てきます。大体16万年間、休みなく働いたときの賃金に相当します。文字通りに途方もない。しかし王は彼を憐れんで、赦してやった。しかし、彼は自分に100デナリオン借金していた仲間を赦せませんでした。およそ、3ヶ月分の賃金です。自分が途方もなく赦していただいたことを忘れていたからです。王、つまり神の憐れみを、私は骨身に染みて忘れずにいるのだろうか。神は「憐れみを負われすれになりません(54節)」が、私はすぐに忘れてしまいます。恐ろしいことです。何と賤しい罪人なのでしょうか・・・。マリアは歌います。「身分の低いこの主のはしためにも、目を留めてくださった」と。私は、自分がどんなに賤しく、神の憐れみによってでしか生きられない者なのかを覚えていませんでした。恥ずべきことです。そして、神の我身の何と深いことでしょうか・・・。私は賤しいし、憐れみのかけらもない失格者だけど、神は憐れみに満ちておられるのです。自分の賤しさを自分で見つめていたら、苦しくて辛いだけだけれど、神がそのような私にさえも目を留めてくださったことは救いです。だから、私たちも歌いましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」神は、私の救い主。賤しく、惨めな私を、神は救ってくださいました。自分の惨めさではなく、神を見上げることができます。息をすることができます。しかし、もしかしたら神は「見上げた」ところにおられるのではないのかもしれません。改革者マルティン・ルターはこのマリアの賛歌を愛し、素晴らしい本を書いています。その中で、このように言っています。「神は低いところだけをご覧になるが、人間の目はただ高いところを見る。すなわち、彼らは見栄えのする輝かしい華美な境遇を見る。」神は、賤しく、貧しく、世に捨てられたようなところへ下って行かれます。神は悲しみの中に降りてこられるのです。ですから、私たちは悲しみの中でさえも神を喜ぶのです。 

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...