2018年1月14日日曜日

マタイによる福音書2:1〜12「王さまに会いに行こう!」

主イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのとき東方からやって来た占星術の学者たちが尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは・・・拝みに来たのです。」王さまに会いに、彼らはやって来ました。エルサレムで尋ねて回ったのでしょう。ユダヤ人の王さまはどこにお生まれになりましたか、と。ユダヤ人の王がお生まれになったのなら、首都エルサレムから探すのが順当です。彼らの来訪は噂になり、遂に王ヘロデの耳にまで届いた。それで、ヘロデ王は不安になります。それだけではない。エルサレムの人々も不安になりました。ヘロデが不安を覚える気持ちはよく分かります。自分の王位を脅かすと思ったのでしょう。しかし、エルサレムの人々はどうして不安になったのでしょう?もしヘロデよりも素晴らしい王さまが生まれたのなら、それは喜ばしいことであるような気もしますが・・・不思議です。私は、こういうところに、人間の素朴な気持ちが表れてきているように思います。ここはエルサレム。少なくともユダヤ社会の中では中心です。もちろん当時はローマ帝国の圧倒的な力が支配する世界で、エルサレムなんて周縁の辺境地の一つに過ぎなかったでしょう。しかし、それでもユダヤ人にとっての中心であることに代わりはない。ヘロデに変わる王が生まれたら、自分たちがいる中心が中心ではなくなってしまうかもしれない。彼らの心境もヘロデと似ていたのではないかと思います。そして、それは、私たちの心ではないでしょうか。私たちは「中心」に生きることを望みます。「寄らば大樹の陰」とも言いますが、私たちにとって自分を守ってくれる「王」の如き存在は一体何なのか、一度立ち止まって考え直してみてもいいのかも知れません。そして、驚くべき事に、あの占星術の学者たちが探していた王は、エルサレムではなく、小さなベツヘレムに生まれてこられました。彼らはヘロデを王とする世界の周縁、片隅で、もう一人の王と出会ったのです。この王は、やがて、罪人の列に入ってヨハネから洗礼を受ける方です。空腹を覚え、神を試みる誘惑にさらされ、神ならぬものを神として拝んで得る誘惑を覚えた方です。漁師を弟子とし、重い皮膚病の人に手を伸ばし、徴税人の友になられました。やがて十字架につけられました。この王は全ての人の僕になられました。そして、その僕である方が全ての人の王として天に挙げられました。まことの王は、しかし、世界の中心ではなく周縁におられます。全ての人の僕として、一番貧しい人間になられたのです。私たちは、まことの王に会うために、どこに行けば良いのでしょうか?あの占星術の学者たちは、言っていました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」そう、彼らは、星を見て王に会いに来ました。どこに行けば良いのか?それは、星が教えてくれました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立て進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」その時代、世界中の人が同じ星を見ていたはずです。しかし、その導きに気づいてまことの王のところへ行ったのは彼らだけでした。神さまは、私たちに語りかけているのではありませんか?私たちがよく注意して耳を傾けなければ聴き取ることのできない声で。聖書は、いつもあなたに語りかけています。まことの王はここにいる、あなたを救う王はここにいる、と。 

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...