2018年1月28日日曜日

コリントの信徒への手紙一3:18〜23「智くならんために愚なる者となれ」

コリントはギリシアの港町です。交易と文化の交差点。商業都市でもありますし、また、古代ギリシアで発達した哲学に長けた人も多かったことでしょう。パウロがこの手紙を書いたとき、知恵や愚かさにずいぶんと特別な関心があったようです。「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」ここで、パウロは一体何を言おうとしているのでしょうか?実は、この時コリント教会は内部分裂に悩まされていました。教会の中にパウロ派、ペトロ派などの派閥ができていたようです。男と女、ユダヤ人とギリシア人、金持ちと貧乏人。文化的な違いや社会的な身分や立場の違いなどでバラバラになっていた。ある意味、どこででも起きていることです。仲良しグループがあり、気の合わない者がいがみ合っている。子どもの世界でもあるし、牧師たちの世界にだって起こります。そういう喧嘩の原因は、自分の成果ややってきたことへの誇りだったり、他人へのジェラシーだったり、言ってみれば高ぶりや劣等感です。つまらないことです。でも、高ぶりや劣等感は私たちの常識的な競争意識や自己充足の意識、消費主義、そういうものから生まれてくる。そして、それらはこの社会の中ではごく普通の価値観です。でも、その結果の高慢や劣等感は、神の御前で美しい姿と言えるのでしょうか?知恵ある者の振る舞いとしてふさわしいのか?明らかに愚かです。なぜなら、神の知恵はこの世の知恵が示す常識とは違うものを見せているからです。この手紙の中で、パウロは、神の知恵は十字架の言葉だと言っています(1:18など)。私たちが聞くべき神の知恵、それは、キリストの十字架の言葉なのです。岩下壮一青年は東京帝大を首席で卒業する秀才でした。熱心なカトリック信者でした。国費留学をけり、やがて欧州へ渡ります。帰国後哲学者になろうかという思いがありましたが、ベルギーのルーベンにいるマテオ神父と出会い、このように言われました。「神さまが私たちを、あなたも私もお互いどうし、一切の罪悪と惨めさを込めて、まず愛してくださった。自ら人間となって十字架の死に至るまで愛してくださった。だから、私たちは一切を措いて、ただその愛に報いるだけである、また報いずにはおられない。ただそれだけである。これ以外に何もない。」彼はこの言葉を切っ掛けにイタリアで司祭になり、そこから派遣されて神父として日本に帰国しました。現在の不二聖心女子学院の校長やハンセン病患者の療養所の神山復生病院の院長などをします。十字架にかけられたキリストと出会い、この世の知恵に生きることから、弱く小さな者と共に生きるように変わったのです。十字架につけられたキリスト。神の知恵。それは私たちに教えます。「あなたがたはキリストのもの(23節)」と。そうです。私たちはキリストのものなのです。世の知恵は私たちを騙し、支配しようとします。勝つことに意味がある、競争の勝ち負けでお前の価値が決まる。失敗すれば価値はない。病気になれば厄介者だ。・・・。しかし、騙されないでください。あなたはキリストのもの!十字架にかけられたキリストは、罪深い私たちに踏みつけられる最底辺におられるのです。悔い改めて、キリストのものとして、十字架の愛に生かして頂こうではありませんか!   

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...