2018年1月7日日曜日

エフェソの信徒への手紙4:15-16「望みを抱く信仰 〜愛のコイノニアの形成〜」

先日、私の尊敬する説教者の説教を聞きました。こんな話をしておられました。「主われを愛す」という讃美歌があります。聞くところによると、これはもともと戯曲に挿入された歌なのだそうです。死の床に就いている小さな子どもが歌う。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。」この讃美歌は讃美歌21になって新しい訳詞が付きました。その新しい方ではリフレインが原詞に近くなっています。「聖書は言う、イエス様は愛されます、この私を。」聖書は言うというところがミソです。聖書がそう言っているから、私は恐れませんと告白します。更に、その説教者は言います。「聖書は言う」というが、その聖書を私たちは教会で読む。教会の仲間とのつながりの中で読む。私が「怖くない」と思い込むのではない、聖書がそのように言い、共にその聖書の言葉に耳を傾ける仲間がいる。私たちはどのような最期を迎えるのか分かりません。何も分からなくなって、イエス様を呪うようなことを言うかもしれません。神を信じて生きられなくなってしまうかもしれません。しかし、そんなときにも教会が私のことを覚えていてくれます。あの宮井という男は神を信じ、牧師として生きた、と。あの人もまたキリスト者だ、と教会が覚えていてくれます。聖書は、私が弱いときにも主は強いと私たちに教えます。だから、大丈夫です。今日の主題は「教会」です。今年、私たちは教会を愛のコイノニアとして覚えます。コイノニアという横文字を使っています。ギリシア語で共同体、交わり、関わり、などの意味があります。聖書ではとても大切にされている単語です。礼拝の最後の祝福の言葉、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように」の「交わり」がコイノニアです。神がいつもあなたに関わっていてくださいます、という祝福の宣言です。教会もまたコイノニアです。食べ物や持ち物を共有する教会の姿を、聖書はコイノニアと呼びます。何よりも信じること、信仰を共有します。それが一番はっきりと表れるのは、今日も行う聖餐のときです。私たちは一緒に聖なるものに与ります。キリストの体であるパンと、血であるブドウの杯です。キリストを信じることにおいて私たちはキリストのコイノニアに与ります。しかし、教会は完璧な存在ではありません。教会はキリストの体。しかし、そのことを疑いたくなることはいくらでも起こります。エフェソの信徒への手紙の今朝の言葉はあまりにもまぶしい言葉です。しかし、パウロがこう書いたのは、もしかしたらエフェソ教会の現実が到底そうとは見えなかったからなのかも知れません。エフェソ書では教会を神の家族とも呼びます。家族は嬉しいことも苦しいことも共有します。我が家に幼子が生まれ、5才の息子も2才の娘も親と共にその喜びも苦しみも共有しています。しかし、それよりも更に私たちには教会という神の家族がいる。キリスト者になったら肉の家族を捨てるわけではありませんが、神の家族の仲間の一員になって、肉の家族との関わり(コイノニア)が新しくなるということも起きる。肉の家族との関わりのために教会が祈ってくれているからです。家族は他人には見せない醜聞もさらします。でも、それは家族だからです。そんな私たちを一つの神の家族に、キリストの体にしてくださるのは、キリストの愛だけです。互いに愛し合う教会はこの世の中で光輝く魅力を持つと私は信じています。   

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...