2018年2月11日日曜日

詩編第139編「夜も昼も共に光を放ち」

主なる神さまが私を極め、私を知っていてくださる。私のまことの父として、私を神の子として、知っていてくださる。それが神を信じる者の喜び、慰めです。神さまは私のすることなすこと、心の思いまでも、すべてを知っておられます。一粒のちりのような私のことを、その髪の毛の一本も、神さまは知っておられます。見張られているみたいでイヤだ、と思うでしょうか?お風呂に入っているときもトイレにいるときのことも知っているのだとしたら、さすがにちょっと…と思う人もいるかもしれません。でも、ある意味そうなのです。親は小さな子ども下の世話だってします。全部見るし、子どももそのことを恥ずかしいとは言いません。そこに、信頼と愛情があるからです。しかし、そうは言っても人間の親は不完全です。子どものことだって分からない事がたくさんあるし、子どものためにしていると言ったって実は身勝手な動機でしていることもいくらでもあります。「私の道(3節)」は迷いの道だし、「私の舌(4節)」が語ることは本来言うべきではないようなことばかりです。でも、そんな私であることをすべて知って、私を極めて、その上で神は私たちをご自分の子どもとしてくださいました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と言っています。この「霊」という言葉は「息」という意味もあります。神さまのみ顔は近い。息がかかるくらいに。例え天に上っても、あるいは陰府に身を横たえても、そこでも間近に神さまの御顔があって、その息吹は私に届きます。闇の中でさえも、神は私を見ておられます。陰府というのは、死の世界です。詩編第88編などにも出てきますが、陰府というのは、神がおられない全くの絶望の世界です。死の世界です。闇もまた恐怖を生み出す。神の手が届かない場所という思いがします。私たちには、神がおられるのは光の世界、昼間の世界のことであって、それは理想の世界、綺麗事の世界というような思い込みがどこかにあるのではないでしょうか。人間のドロドロした世界のことは、聖書とは違う現実の世界だと考えてしまってはいないでしょうか。この詩編ではどこに行っても神がおられると言うけれど、実際にはどこを探しても神はおられないということのほうがむしろ現実だと…。イスカリオテのユダは闇夜の中に隠れて、イエスを裏切りました。闇の中にある世界で、今のイエスのやり方では通じないと思ったのです。それで裏切った。しかし、ユダの裏切りでイエスが捕らえられ、裁判にかけられると死刑判決が下りました。絶望を深めたユダは自殺しました。暗闇の中に沈み込んでしまいました。主イエスはそんなユダをどうなさるのでしょうか。イエスは、ユダが死んだ数時間後に十字架にかかり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。死んで、墓に葬られ、陰府に降りました。ユダを追いかけるようにして。陰府にも主はおられる。闇にも主はおられる。闇よりももっと深い闇を主は知っておられる。闇も神に比べれば闇とは言えない。昼も夜も共に光を放ちます。主がそこにおられるからです。神はこの私に命を与え、私を形づくってくださいました。親には子どものいのちを造ることなんてできやしない。しかし、神にはできます。その驚くべき御業によって私を究めておられる方こそ、私の真実な救い主イエス・キリストその方なのです。

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...