2018年3月18日日曜日

ヨハネによる福音書第11章45から53節 「好都合」への疑問符

キリストは私たちのために、私たちに代わって死んでくださいました。それは、私たちにとっては世界が変わってしまう福音です。この世界は「わたしのために」で回っている世界だからです。この世界には好きに、やりたいことをやって生きるという福音もあります。自己実現が幸福の証しだと見なされます。でも、実際に今私たちが経験しているのは、そういう社会の生きづらさです。なぜ、私たちはイライラしたり、異様に疲れていたりして、社会全体が生きにくくなっているのでしょうか。一昨日、息子の幼稚園の修了式に行きました。子どもたちが「忘れないで」という讃美歌を歌いました。「忘れないで、いつもイエス様は君のことを見つめている。だからいつも絶やさないで、胸の中のほほえみを。」聞いていて、感動してしまいました。本当に忘れないでいてほしいと願います。「自分のために」の世界の中で、本当に私たちのために生き、また死んでくださった方のことを。今日の聖書の御言葉は、なぜイエスが殺されることになったのかという理由が書いてあります。イエスが数々のしるしを行ったのを見て多くの人がイエスを信じました。最高法院は頭を悩ませます。このイエス人気がローマ帝国からユダヤに逆心ありと誤解されはしないか。すると大祭司カイアファが言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」この言葉が決定的だったようです。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらむようになりました。主イエスは「自分のために」とか「好きに生きる」の世界の中で、その秩序を維持するために一番好都合だという理屈で殺されることになったのです。こういう現象を何というのでしょうか。スケープゴートとか人身御供というのでしょうか。それらは、システムを維持するために個人を犠牲にすることです。システムは本来は人間を守るためのものです。家族、学校、会社などもそうでしょう。集団だけではありません。電車の時刻表や交通ルールもシステムです。しかし、システムは時に人を守らなくなります。路地に隠れて取り締まる無意味な交通ルールの監視などはその典型例です。家族は時に愛の共同体ではなくなり、ある家族を犠牲にすることでなり立つこともあります。システムそれ自体が自己目的化するのです。それは、他人事ではなく、私たちの話です。カイアファの名前が再び登場するのは、18:14のイエスの裁判が始まる場面です。主イエスはカイアファのしゅうとのところへ最初送られ、尋問を受けました。茶番の裁判です。次にローマの総督ピラトのところへ。当時のユダヤでは死刑にする顕現がなかったので、ローマの力を借りようとしたのです。しかしピラトがいくら取り調べてもイエスに死刑の理由は見つかりませんでした。もう釈放したらどうかとピラトは持ちかけます。しかし、人々は叫びました。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と。ハッとします。イエスをしいて十字架につけたのは、大祭司でも総督でもありません。ただの普通の人々です。私でもあるのです。殺せ、十字架につけろ。それは私の叫びです。しかし、不思議なことにあのカイアファの言葉は預言であったと聖書は言います(11:51-52)。神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとしてご自分の御子イエスを私たちに遣わしてくださったのです。ここに福音があります。   

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...