2018年3月26日月曜日

2018年受難週祈祷会・月曜日

主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。(詩編96:2)
一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコによる福音書14:26)

十字架にかかる前の夜、苦しみの夜の初めに主イエスがなさったことは、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をすることでした。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22:15)と言うとおりに、主イエス御自身がそのことを願っておられました。そして、その締めくくりとして、主イエスは弟子たちと共に「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」のです。
食事の時にイエスさまがなさったことは、ユダの裏切りを指摘すること、そして聖餐を制定することです。食事が終わり、一同が賛美の歌をうたい、向かって行ったのはオリーブ山。その麓にはゲツセマネの園があります。オリーブ山までの道すがら、主イエスは、これから御自分が裁判と十字架に進んでいくときに、シモン・ペトロがご自分の子とを知らないと言うだろうという予告をなさいました。つまり、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」という言葉は、ユダの裏切りの予告とペトロの裏切りの予告の間に挟まれて、ゲツセマネの園での祈りに向かう主イエスが、苦しみを前にしてなさったことなのです。
私たちは、苦しみを前にして、何を口にしているでしょうか。自分を裏切る者を前にして、何を思うのでしょうか。主は、苦しみを前にしたときに賛美の歌をうたいました。私たちは、私よりもなお深く苦しんでおられる主イエスに向かって、「どうして私が苦しまなければならないのか」、「本当に神の子なら自分と私を救ってみろ」と罵ってしまっているのかもしれません。
「一同は賛美の歌をうたってから」とあります。この時の賛美の歌は、恐らく詩篇第115編から118編だったと考えられています。この中でも私は特に第116編が大好きです。ぜひ聖書を開いて読んでみてください。「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。」「あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。」このような詩編の言葉を読んで気づくのは、賛美の歌の中に、すでにわたしの苦しみも、そこから助けてくださいという祈りも、全部が既に含まれているということです。ですから、私たちも苦しみの日に主と共に賛美の歌をうたいましょう。苦しみの中でこそキリストを見上げて、神を賛美しましょう。賛美の歌をうたいながら、主イエス・キリストは、十字架へ向かって行かれます。

コリントの信徒への手紙一7:1-7「賜物としての人生」

 わたしが学生の頃に出会った、少し年下のあるキリスト者がいました。彼は言いました。「自分は、独身に召されているのではないかと思う」と。若い私には本当に衝撃的な言葉でした。どうしてそう思うに至ったのか、もっと詳しく聞かせてもらえばよかったと思います。ただほとんど確実だとわたしが思...