2018年3月25日日曜日

ヨハネによる福音書第12章12から19節「すべての道は十字架に通ず」

昨日、かもい聖書教会で行われた結婚式に行きました。知らない町を歩くのは、少しドキドキします。知らない坂道を上りながら、この道で本当によかったのかなと思い始めた頃に教会堂の赤い屋根と高く空に向かう十字架が見えてきました。私の小さな旅です。日曜日に礼拝に来るのも、小さな旅、小さな巡礼です。12節を見ると、ここには「祭りに来ていた大勢の群衆」がいました。イスラエル人には年に3度のエルサレム巡礼が課せられています。それで宮詣でに来た人も多かったのでしょう。しかし、それはきっと単なる義務ではなく、救いを求める巡礼だったのだろうと思います。なぜなら、主イエスがエルサレムに入城するのを見て、人々は「ホサナ」と叫んでいます。この言葉は「救ってください」という意味です。皆、救いを求めていました。神に救いを求め、それを私にもたらしてくださるのはこの方ではないかと期待していたのです。昨年秋の中会女性会の研修会で「十字架の道行き」の体験というプログラムがあったようです。カトリック教会の礼拝堂に行くと見ることができます。15のチェックポイントのようなものがあり、それぞれに、十字架に向かう主の足取りにかんする言葉を朗読するようになっていて、祈りをしながら15の箇所を回るのです。カトリック教会に息づく一つの祈りの型です。これもまた小さな巡礼です。この巡礼で養うのは、十字架にかけられたキリストへの愛です。私たちの人生も、一つの巡礼の旅であると言えるのではないでしょうか。私たちはエルサレムに行くわけではないかもしれません。私も行ったことありません。カンバーランド長老教会の一員としては、いつか米国テネシー州ディクソンにある小さな丸太小屋、カンバーランド長老教会が生まれることになった小さな祈りの集会が行われたあの小屋に行ったみたいとは思いますが、例え行けなくても構わないのです。私たちがこの場所で営んでいる日常が、既に巡礼の旅だからです。私たちはこの場所で主イエスへの愛を育む旅をしています。「ホサナ、救ってください」と私たちも主に祈りながら生きています。あの時、群衆はどういう救いを求めていたのでしょうか。1718節を見ると分かります。人々は、主が死んでいたラザロを生き返らせたことを耳にして、主イエスのところへ来て救いを求めて叫びました。人々の願いは、あるいは私たちの究極の願いは、死からの救いなのではないでしょうか。しかし、私たちはこのみことばを読んで少し戸惑います。なぜなら、一週間も経たないうちに、この群衆はイエスを十字架につけろといって叫んだことを私たちが知っているからです。ここには私たちの救済願望の罪があるのだと思います。私たちには、こうやって救ってほしいという神様への期待が、それぞれの形であるのではないでしょうか。その通りになれば良いですが、その期待が外れたとき、神への期待は失望に変わります。人間関係でももちろん同じです。配偶者への願望が思い通りにならない怒りを多くの人が知っているでしょう。願望に潜む罪がある。王キリストは、私たちの願望を叶えようとしてエルサレムへ来られたのではありません。聖書に書いてある通りにろばに乗る王として来られました。キリストにおいては聖書が語る救いが先に立っているのです。この方は私たちの王です。しかも、十字架と復活によって栄光を受ける王です。だからこそ、私たちを死からも救いうるのです。   

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...