2018年3月29日木曜日

2018年受難週祈祷会・木曜日

すべての命はわたしのものである。(エゼキエル書18:4)
イエスの言葉:わたしの父の家には住むところがたくさんある。(ヨハネによる福音書14:2)

わたしたちは、やがて死を迎えたときにどこにいくのでしょうか。多くの人の問いではないかと思います。自分自身の死を見つめたり、大切な人の死に直面したり、さまざまな場面で私たちはそのようなことを問います。私たちは、やがてどこに行くのでしょう。私の大切なあの人は、今どこにいるのでしょう。そう問うたとき、主イエスは答えてくださいます。「わたしの父の家には、住むところがたくさんある」と。
「百万人の福音」という雑誌があります。今発売されている4月号に、小さな記事を書きました。編集者の方に「聖書にある死んだ後のこと」というタイトルを与えられました。聖書の言葉をいくつか取り上げて、それらについてのお話を書いています。編集者の方は、この雑誌を読む人(キリスト者も、そうでないかたも)の多くが問うているのではないかと考えたのではないかと思います。私たちは、死んだときに一体どうなるのか、と。ここでも、やはり、私たちはやがてどこに行くのかという問いがあります。
「わたしの父の家には住むところがたくさんある。」だから、私の父の家へ行こう。主イエスは私たちを誘ってくださっています。私たちには、死んだ後どうなるのか、詳しいことは分かりません。聖書はそれほど死後のことについて語っているわけではありません。私たちが知りうる範囲の外の話です。しかし、主は、私たちのための場所を用意してくださっています。主が「父」と呼ぶ方の家に、私たちのための場所がある。私たちは、今、主イエスの父の家へ向かって歩んでいます。
私は希望が丘教会附属の幼稚園に通っていました。私が年少組の頃のことです。小さな遠足というか、散歩のようなものがあって、園のみんなで少しはなれたところにある大きな公園(確か大池公園だったと思う。)に行きました。年少組の子どもは足も遅くてなかなか進めません。大きな子どもたちは自分たちのペースで先に行ってしまいました。先生が、ちょっと戯れに、みんなどうする、私たち迷子になっちゃったのかなと子どもたち(つまり、私たちのことです。)に言いました。私たちは、ちょっぴり不安になった。でも、先生はもちろんどこに行けば良いのか分かっています。だから、先生は不安ではないし、怖くもありません。私たちの生きる道も同じです。私たちは、時には他の人と歩くペースが違うこともあるかもしれないし、もしかしたらちょっと道に迷ってしまったり間違えてしまったりすることもあるかもしれません。しかし、どこに行くのか分かっていれば、心配する必要はありません。どこに向かっているのか分かっていれば、地図を見たり、他の人に聞いたり、いくらでも方法はあります。心配しなくていい。そして、私たちは、イエス・キリストの父の家へ向かっている。行き先ははっきりしています。主が、私たちが道を失ったと思い込んで心配になったときにも、共にいて、道を教えてくださいます。こっちへ行こう、一緒に父の家へ帰ろうと、手を取ってくださいます。主の手は、具体的には、教会の仲間の手の形をしているのです。
「すべての命はわたしのものである。」主なる神様はそうおっしゃいます。私の命も、キリストのもの。主のもの。それは、私たちをどんなときにも掴んで、話さないでいてくださる神様の愛の確かさです。今日は受難週の木曜日で、聖餐を祝います。この食卓は、父の家での食事の先取りです。父の家でのパーティーの前味です。私たちを迎える神の愛が込められた食卓なのです。

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...