2018年5月20日日曜日

ヨハネによる福音書第20章19から23節「私たちの原点」

ペンテコステです。もともと、ユダヤには三つの大きな祭りがありました。種入れぬパンの祭り、ペンテコステ(五旬祭)、仮庵の祭り。この五旬祭の日に、キリスト教会に大事件が起きて、教会としての新しい意味を持ったペンテコステの祝いの日が生まれました。教会に起きた事件、それは教会の誕生です。使徒言行録第2章にその経緯が書いてあります。この日はユダヤのお祭りでしたので、世界中からユダヤ人がエルサレムに戻ってきていました。当時、既にユダヤ人はパレスチナだけでなく、小アジアやアフリカなどいろいろな場所に離散していました。文化的にも言語的にも、種々雑多でした。政治的にも、生まれも、生活も、さまざまです。実際に、多様な人々がそこにいて、良好なコミュニケーションをとることは簡単なことではありません。ペンテコステの日に教会が生まれました。神の霊、聖霊が降りました。するとどうなったのか。教会はそこにいた種々雑多な人々の言葉で、相手に通じる言葉でイエス・キリストの福音の言葉を語り始めました。相手に言葉を届けたのです。先日、Eテレを見たら、ある歌手の人が出演していました。あるとき聾者の前で歌うという機会があった。一体どういう意味があるのかと考えた。しかし、実際に歌うとその人に何かが伝わり、彼女にとって大きな喜びの経験になった。それから、聾者に歌を届ける活動をしているそうです。番組の中では聾の当事者と一緒に、歌詞を身体で表現する方法を考えていました。言葉を届けていました。私たちも、言葉が届く喜び、あるいはその逆に届かない悲しみを毎日経験しています。言葉が届かないとき、私たちの目は表面的なところに向きます。性格が違うとか人生経験が違うとか、性別とか年齢とか。2000年前のペンテコステの日、そこにいたのは文化も生活も、言語も政治もぜんぜん違う人たちです。しかし、神さまの霊が降ったとき、彼らに届けるべき言葉が与えられました。私たちの言葉を遮っているのは、神さまの力を持ってしてでなければ超えることのできない壁なのではないでしょうか。つまり、それは私たちの罪の現実です。それは今朝のヨハネ20:19-23に見られる私たちの姿です。この時、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。恐れと閉じこもりは、私たちを孤立させます。彼らが恐れていたのは、イエスさまが十字架にかけられてまだ三日目のことだったからです。自分たちがイエスを裏切り、捨てて、イエスは十字架につけられた。自分たちも同じ目に遭うかも知れない。私たちは知っているのではないでしょうか。私たちが怒りに身を焦がしているとき、私たちもイエスを捨てているのではないか。私たちは怒ったままでは真剣に祈れません。怒ったまま相手のために祈れない。でもその怒りに執着している。そんなとき、私たちはイエスを捨てているのではないでしょうか。ところがイエスはご自分を捨てた弟子たちのところに来て、「あなた方に平和があるように」と言ってくださいました。これは「私はあなたを赦す」ということです。私たちはキリストに赦していただいた罪人たち。それが私たちの原点です。キリストが私たちに与えてくださった言葉は、罪の赦しの福音の言葉なのです。実は、赦すことよりも難しいのは、赦してもらわないとどうしようもない自分だと認めることです。そうだからこそ、私たちは赦しの福音に生きるしかないのです。

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第 16 章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主...