2018年5月13日日曜日

ルカによる福音書6:6〜11「とびきりの日曜日のすごしかた」

安息日の話です。私たちで言えば日曜日にあたりますが、主イエス様の時代の安息日には(あるいはユダヤ社会の安息日には、と言った方が良いかもしれません)、今の日曜日と少し感覚が違うところがあるかもしれません。主イエスが安息日の律法に従わないと言って人々が怒り狂っています。なぜ、ここまで起こる必要があるのか、と私たちからすると少しいぶかしく思います。なぜなのでしょう▼安息日の律法は、律法の中心である十戒の真ん中に登場します。神さまが天と地をお造りになり、七日目に休まれたことを覚えて、あるいは神さまが奴隷の家エジプトから救い出してくださったことを記念して、七日目には仕事を休んで、神さまの御業を思い起こす。ついては自分だけではなく、家族も、家の奴隷も、みんな仕事を休んで、神さまが救ってくださったことを思い出して感謝する。安息日はもともとはそのための日です。そういう七日に一度の特別な時間を共有するところで、神さまを信じる民は自分たちのアイデンティティを確かにしていきました。少し感覚的に違うとは言っても、私たち現代の教会も日曜日に礼拝することでキリスト者として生きているのですから、本質的には同じです。ところが、イスラエルの長い歴史の中で、休むというのは具体的に何を休むのかという判例集が生まれていきます。家の中で一日中寝ているわけには行かないので、どのくらいの距離なら歩いていいのか、どの家事ならしても良いのか、一つひとつを具体的に線引きしていくようになります。そうしているうちに、安息日のルールを守ること自体が目的になって、最初の精神が見失われていく…。主イエスの時代はそういう状況だったのかも知れません▼もともと良いものだったのが歪んでしまったときに、知らず知らずのうちに私たちを苦しめるというのは少なくないことです。今、私のメガネが歪んでいます。(小さな子どもを育てながらメガネを歪ませないのは至難の業です。)メガネは目的にかなった正しい形をしていないと、頭を痛くさせてしまいます。今朝の主イエスの周囲で起きている安息日の掟を巡る律法学者たちの反応も、歪んでしまっているのかもしれません。そうすると、元々は良いものだったはずのものが、人間を苦しめることになりかねないのです▼一人の手の萎えた人。律法学者たちにとっては主イエスを試す格好の材料でした。彼らは見失っていました。彼もまた一人の尊厳ある人間だということを。主イエスだけが、そのことをご存知だったのです。主は彼らに問いました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼の萎えた手を治してあげました。主イエスは、この一人の人を、一人の人間として見ていてくださったのです▼安息日は、神さまが私たちを救ってくださったことを思い出すための日です。神さまが私たちに命を与え、永遠の祝福を下さっていることを心に刻む日です。ですから、最もこの日にふさわしいのは、キリストの愛を一心に受けるために心を開くことです。私たちの尊厳を回復するために、イエス・キリストは私たちのところへ来てくださいました。罪と悪から私たちを取り戻してくださいました。私たちは、フトすると自分はそれほど価値がないとか、隣人の価値を見失ってしまうとか、謝ってしまいます。しかしキリストは私たちを「人間」として取り戻すために、安息日にも働いておられます。

コリントの信徒への手紙一2:6-9「世界が始まる前からの計画」

今日の聖書の御言葉を読んで、何人かの主イエスの弟子たちを思い出しました。まず、シモン・ペトロ。マタイによる福音書第 16 章に登場するエピソードです。主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねた。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」主...