2019年8月11日日曜日

2019年8月11日(歴代誌下31〜32)

今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一10、歴代誌下31~32、コヘレトの言葉6

歴代誌下31~32;
「ヒゼキヤは、祭司とレビ人の組み分けを決め、その組に従って、祭司とレビ人それぞれの務めに応じて、主の陣営の門の中で焼き尽くすいけにえや会食のいけにえを献げ、感謝をし、賛美するように定めた(31:2)」。こうして、ささげ物を整え、神殿に仕えるレビ人たちの働きの割り振りを整えました。第31章に書かれている様子は、まるで出エジプトの民が、モーセに導かれてレビ人の仕事を整え、神様の幕屋に仕えて礼拝を献げていったプロセスをたどり直しているように見えます。そのようにしてヒゼキヤの礼拝改革は進み、「彼は、神殿の奉仕について、律法と戒めについて、主を求めるために始めたすべての事業を、心を尽くして行い、成し遂げた(31:21)」のでした。
その後、アッシリアのセンナケリブ王が攻めてきました。その圧迫は大変強く、ユダ王国も戦況は大変不利で、滅亡寸前という所まで行ってしまいました。アッシリア軍はユダの人々の士気を落としてやろうと、彼らの信仰に揺さぶりをかけます。「お前たちは何を頼りにして、包囲されたエルサレムにとどまっているのか。『我々の神、主がアッシリアの王の手から救われる』と言って、お前たちを唆し、飢えと渇きで死なせようとしているのはヒゼキヤではないか(32:10~11)」。さらにアッシリアがこれまで滅ぼしてきた国々を引き合いに出して、「私の先祖が滅ぼし尽くしたこれらの諸国民の神々のうち、どの神が自分の民を私の手から救い出したのか。お前たちの神は、お前たちを私の手から救い出すことができるとでも言うのか(14節)」と言って見せます。「このようにして彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々と同じように語ったのである(19節)」。
私たちには、誰にでも苦難があります。困難があります。もっとも苦しいことは、その苦しみの中で信仰が否定されることではないでしょうか。神を信じることが無意味だと、自分自身の声なのか人の言葉なのか、そのような言葉が響くことではないでしょうか。ヒゼキヤ王とユダの人々は、この苦しみを忍耐しました。主が彼らを救ってくださいました。「それ以来、彼はすべての国々から仰ぎ見られるようになった(23節)」。しかしもしかしたら、私たちの苦難はいつまでたってもなくならないかもしれません。それでも私たちが神の愛を信じ続け、神様の父としての御手を信頼し続けることができるのは、イエス・キリストによって神が私たちに示してくださった愛が、何よりも確かであるからです。この神の愛から私たちを引き離すものは、何もありません。だから、私たちは心を尽くし、力を尽くしてこの方を愛し、礼拝するのです

2025年7月18日の聖句

私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。(イザヤ59:12~13) たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1) なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう...