「神の恵みによって、今日の私があるのです」とパウロは言います。口語訳では「神の恵みによって、私は今日あるを得ている」と訳していましたが、私はこの翻訳が好きです。私が今私であるのは、神さまの恵みのお陰ですと喜びをもって宣言します。とてもすてきで、健やかな言葉です。このように言えることが、神を信じる者の喜びの一つだと言ってよいと思います。
「神の恵みによって、私は今日あるを得ている。かみの恵みに生かされている私をどうぞ見てください。」もしかしたら、そう言われると少し怯んでしまうかもしれません。とても私を見てくださいだなんて言えやしない…。ただこの言葉は、私をこのようにこの私として生かしてくださっている<神の恵み>を見てください、ということです。パウロは自分は使徒の中ではいちばん小さく、使徒と呼ばれる値打ちもないと言っていました。自分はかつて神の教会を迫害したから。何の値打ちもない私が赦され、今ある。それがパウロの原点だったのでしょう。
この「神の恵み」はイエスの復活として顕れました。イエス・キリストが死者の中から復活して、私に出会ってくださった。イエスは今、生きておられる。それがパウロの信仰を、パウロの喜びを、私たちの神への信仰を支える要たる恵みの事実です。
ところがパウロは今コリント教会に向かって「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と問わねばならない。死者の復活を否定する者が教会にいた。しかし、死者の復活はパウロにしてみれば福音の中身そのものです。それなのにその一番肝心要のところが否定されてしまっている。一方では、それは当たり前のことです。イエスが死者の中から復活した、という聖書の言葉が実際に起こったことだと信じろというのは、およそ不合理、非科学的です。私たちの家族にでも友人にでも、私たちは尋ねられます。あなたは熱心に教会に行って、一体何を信じているのか、と。「イエスが死者の中から復活したと信じている。」そう言ったら相手はどういう反応をするのか…すぐに想像尽きます。それならどうするかというと、合理化してみせます。弟子たちが主観的にそう確信していただけだとか、何はともあれイエスの教えはすばらしい愛の教えだから信じがたい奇跡は目をつむって深く考えないだとか。コリント教会もそうしていました。ギリシアの町ですから、そもそも霊魂不滅を信じていました。やがてこの肉体から魂が解放され、私たちは救われる。これは案外現代日本にも生きている考え方です。魂の不滅や輪廻をテーマにした文学もアニメもたくさんあります。そういう社会に違和感を与えない方法として、彼らは復活を合理化して、結局は心の問題にし、この体が復活するというキリストの福音をなかったことにしてしまったのです。まるで産湯と共に赤子を流すように。福音を受け入れやすくして、要を捨ててしまいました。
しかし本当は、イエスの復活の事実によって私たちは救われたのです。私たちを罪から救い、信じて眠りについた者たちを救うのは、十字架にかけられて復活した方です。私たちの信仰は無駄ではない。なぜか。イエスは現に復活し、今生きておられるからです。