今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一14、エズラ記3~4、コヘレトの言葉10
エズラ記3~4;
帰還したユダの人々が第七の月(恐らく、今の10月頃)になると、エルサレムに集まってきました。そして瓦礫しか残っていなかった神殿跡地に祭壇を築き、「そこで主への焼き尽くすいけにえ、朝と夕の焼き尽くすいけにえを献げた(3:3)」のでした。またモーセの律法の書に書かれているとおり、仮庵祭を祝いました。礼拝を再開したのです。
さらにその約半年後、二年目の第二の月(今の4月か5月頃)になると、主の神殿の工事をする者たちが集まってきました。大工たちが主の神殿の基礎を据えると、彼らはラッパを鳴らして主を賛美し、言いました。「『主は恵み深く、その慈しみはイスラエルの上にとこしえに及ぶ』、と主への賛美と感謝を持って唱和した(3:11)」。彼らは涙を流して喜びました。「昔の神殿を見たことのある多くの年配の祭司、レビ人、親族の頭たちは、この神殿の基礎が据えられるを目にして大声で泣いた。多くの者が喜びの叫び声を上げた。そのため誰も喜びの叫び声と民の泣き声を聞き分けることができなかった。民が大きな叫び声を上げ、その声が遠くまで聞こえるほどだったからである(12,13節)」。
瓦礫の山となって70年、荒れに荒れきった神殿跡地に、新しい基礎が据えられた。それが彼らにどんなに大きな喜びだったのかは察するにあまりあるものです。神の民であるイスラエルの民の再建は、礼拝の再建から始まったのです。
しかし、その道はまっすぐに進んだわけではありませんでした。彼らの工事を妨害する者が現れます。ペルシアの王アルタクセルクセスまでも引っ張り出しながら、世界史的な力のもとに、神殿再建を妨害しようとする者が現れます。神の民の礼拝の歩みには、必ずこのようにそれを妨害する者がいる、ということではないでしょうか。「するとその地の民は、ユダの民の士気を挫き、建築に取りかかる人々を妨害し(4:4)」というのですから、士気を保つことが大事なのでしょう。礼拝の士気を損なおうとする誘惑は多い。その道をまっすぐに歩む力は、礼拝再建の喜びに立ち帰り続けることです。神様の恵みによって今日あるを得ている私。その恵みの事実に、礼拝によって私たちは立ち帰り、新しく出発するのです。
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