今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一16、エズラ記9~10、雅歌2
エズラ記9~10;
「これらのことが終わって後、長たちが私のもとに近づいて来て言った。『イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の民から離れようとせず、カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人の忌むべき慣習に従っています。彼らもその息子たちもこの地の民の娘をめとり、聖なる種族はこの地の民と混じり合ってしまいました。・・・。』私はこのことを聞いて、茫然として座り込んだ」(9:1~3)。
エズラは、人々がこの地の民と結婚している、という事実を知りました。それを聞いて、ただ茫然と座り込むしかありませんでした。
ヨシュアの次の世代、士師記の時代にも同じことがありました。「イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住み続けている間に、彼らの娘を自分たち妻に迎え、自分たちの娘を彼らに息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えるようになっていた(士師記3:5~6)」。
エズラは祈ります。「わが神よ、私は御前に恥じ入るあまり、顔を上げることができません。私たちの過ちは積み重なってわが身の丈を越え、罪責は大きく天にまで達しています(9:6)」。これは先祖が犯してきた罪そのものです、と悔い改めの祈りをしました。その祈りは人々の間に広まっていきます。「エズラが神殿の前で祈り、泣き伏して罪を告白していたとき、神のもとにイスラエルの男、女、子どもたちが集まって来て、非常に大きな会衆となった。こうして民は激しく泣いた(10:1)」。彼らは、これまでの帰還に結婚したその地の民の人々を、自分たちの中から追い出すことを決め、それを実行したのでした。
最後の処置は私たちの時代感覚にはなじまないものです。自分たちと異なるものを排除する精神は、今の時代に吹き荒れている悪です。エズラの行動を金科玉条に時代の文脈を無視して当てはめるべきではありません。ただ、まっすぐに神に仕え、自分たちの中から罪を取り除く真摯さは、とても大切だと思わされます。私たちも、自分が置かれている状況の中で、主なる神様にまっすぐに仕えていきたいと願います。