2019年9月17日火曜日

2019年9月17日(イザヤ書37〜39)

今日の通読箇所:テサロニケの信徒への手紙一3、イザヤ書37~39

イザヤ書37~39;
ヒゼキヤ王の治めるユダ国はアッシリアに圧迫されていました。彼らは神の名までも騙りながら、ヒゼキヤを初めとするユダの人々を苦しめていました。アッシリアは、ユダがアッシリアに下ることが神のみ心に適うことだと言わんばかりでしたが、本心は別のところにあります。
「お前はエルサレムがアッシリアの王の手に渡されることはないなどと言って、神に頼っているが、その神にだまされるな。実際お前は、アッシリアの王たちがすべての国々を滅ぼすために行ったことを聞いているであろう。自分だけは救い出されるというのか。わが先祖たちは、ゴザン、ハラン、レツェフ、およりテラサルにいたエデンの人々を討ち滅ぼしたが、これらの諸国民の神々は彼らを救い出したであろうか(37:13)」。
結局、アッシリアにとって、主なる神様は自分たちが占領してきた弱小国が頼っていた神々の一つに過ぎませんでした。端から馬鹿にしていたのです。
ヒゼキヤが生きている状況は、もしかしたら私たちの状況に似ているのではないかと思います。私たちの信仰も、周囲から見たら馬鹿げた迷信の一つに見えるかもしれません。
しかし、この責め苦の中でヒゼキヤは何と祈り、信じたのか。「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。生ける神を罵るために送ってよこしたセンナケリブのすてての言葉を聞いてください。主よ、確かにそうです。アッシリアの王たちはすべての王国とその国土を荒廃させました。彼らはそれらの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神ではなく、木や石であり、人の手で造られたものに過ぎないので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ、どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地上のすべての王国は、あなただけが主であることを知るようになるでしょう(17~20節)」。この信仰者としての確認と覚悟が、私たちにあるでしょうか?
ヒゼキヤは、人間的に見れば甚だ問題ある人だったと思います。欠けが多く、今日のところも読んでいくと人としてどうかと思ってしまうような振る舞いもあります。しかし、その不完全な人格の祈りを、主は聞いてくださいました。私たちもヒゼキヤのようにがむしゃらに祈り、がむしゃらに信じたい。そう願います。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...