2019年11月18日月曜日

2019年11月18日(エゼキエル書37〜38)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書19:23~42、エゼキエル書37~38

エゼキエル書37~38;
平野のおびただしい骨、しかも枯れ果てた骨。そこには、命のかけらも見当たりません。「人の子よ、この骨は生き返ることができるか」(37:3)と神に聞かれても、「はい」と言いうる要素が一つもない。人間にはあらがいようのない力、死の力に覆い尽くされているからです。
しかし、預言者は「生き返る事なんてできません」とも言いませんでした。例え死に覆われていても、生き返りうるたった一つの可能性を知っていたからです。「主なる神よ、あなはたはご存じです」(3節)。もしも枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、それは、主がそのようにしてくださるということが唯一の可能性なのです。
「主は私に言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる』」(4~6節)。
神が御言葉をもって命じ、その霊を吹き付けるとき、枯れ果てた骨は生き返るのです。「霊」という言葉には「息」という意味もあります。私たちの呼吸の起源は神が吹かせた霊の風だと言うのです。これは、私たちの命の物語です。
37:15以下にユダとイスラエルが再び一つになるという預言が語られています。「私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と二つの王国に分かれることはない」(22節)。ユダとイスラエルは、ソロモンの次の時代から分裂し、互いに反目し合っていました。その和解の時が来るという約束です。神が一つにすると言ってくださっています。この章前半の枯れた骨は、もしかしたら、互いに憎しみ合い、反目し、共に生きることのできないというところに具体的に見えている姿であるのかも知れません。私たちが隣人と共に生きることのできない姿は、神から御覧になったら、与えられた命をからしてしまった骨のようなものなのかも知れない。この枯れ果てた骨が生き返ることができるとしたら、その可能性は、神様の命を与える語りかけにこそある。私たちは、和解の福音に生かされています。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...