2019年12月8日日曜日

2019年12月8日(ヨエル書1:1~2:14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録8、ヨエル書1:1~2:14

ヨエル書1:1~2:14
「ああ、その日、主の日は近い。それは全能者からの破壊のように来る」(1:15)。
預言者ヨエルが告げるのは、まことに厳しい裁きの預言です。ヨエルが「主の日」というのは、救いの日ではなく裁きの日です。罪の裁きです。この「主の日」という表現、今私たちは日曜日を指してこのように言いますが、旧約聖書では、ヨエルが言うのと同じ意味でしばしば用いられている。
「泣き叫べ、主の日は近い。それは全能者からの破壊のようにやってくる」(イザヤ13:6)。ここでは主の日という言葉だけではなく、全能者からの破壊のようにという言葉も共通しています。しかしこの裁きの対象はイザヤ13:1にあるとおり、バビロンです。
あるいは「確かに、その日は近い。主の日は近い。それは暗雲の日、諸国民の裁きの時である」(エゼキエル30:3)と言われていますが、これはエジプトに対する裁きを告げる言葉です。
このように「主の日」と預言者が語る時、それは「裁きの日」という意味です。しかも、イザヤもエゼキエルも、異邦の国々への神の裁きとして語っていました。その主の日が、しかし、ヨエルによると他ならぬイスラエルに臨むと宣告されているのです。「シオンで角笛を吹き鳴らせ、わが聖なる山で大声で叫べ。この地に住むすべての者よ、震えおののけ。主の日が来る、それは近い。闇と暗闇の日、雲と密雲の日が」(2:1)。
今回の聖書通読で改めて旧約の預言者たちの言葉に耳を傾け、私は、今私たちが聞くべき言葉はこれなのだという思いを新しくしました。今、私たちに向けられた警告であると私は思います。私たちの国は、もう、神の厳しい裁きによって滅ぼされなければならない、そんな惨状を呈しているのではないでしょうか。神を神としてあがめることも、弱者の権利を重んじることもなく、強い者におもねり、不正がまかり通っている。それは当然のこととして、「教会の外はそういうとんでもない世界だ」などと言うことではなく、この神の裁きを一番先に受けなければならないのは、神様の御言葉に聞いてきたはずの他ならぬ私たちである、ということです。預言者ヨエルの言葉は、本当に、厳しい思いを抱かせます。
「しかし、今からでも、心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって、私に立ち帰れーー主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き、あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても、思い直される」(2:14)。主なる神様の恵みの奇跡、憐れみの奇跡に、ただただすがりつくだけです。今教会に来て神を礼拝している者だけのためではありません。私たちの心の中のプライベートな平穏のためではない。少なくともそれだけのためではない。この国や多くの同胞、この地に寄留する人たち、すべての隣人のために、私たちは神の御前に立ち帰って、心を注ぎだして悔い改め、ただ神のみを礼拝しましょう。キリストの憐れみの中へ、帰りましょう。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...