2019年12月8日日曜日

ヨハネによる福音書第1章29から34節「この方こそ神の子!」

 洗礼者ヨハネという人は、私にとってとても気になる存在、無視できない存在です。しかし同時にあまり居心地の良くない気持ちにさせる存在でもあります。彼はヨルダン川の向こうのベタニアにいました。このベタニアというのは聖書の別の箇所にも出てくる有名なベタニアのことはありません。今日、どこだったのかはよく分からない。それはヨルダン川の向こうだと言います。川向こうは、文化圏が違う場所です。当時の橋の状況はよく分かりませんが、今日想像する以上に別世界だったことでしょう。つまり、ヨハネは外なる存在、生活圏の外にいる奇妙な存在です。その余所者が、荒れ野で声をあげていました。荒れ野というのもまた象徴的です。荒れ野は中心ではなく周縁です。川のこっちと向こうは別世界、川のこちら側では誰もが中心に近づこうとし、その競争に明け暮れています。中心は、一番華やかな場所、誰もがうらやむ場所です。桜か何かを見る催しが開かれ、そこに呼ばれればSNSにでもアップするような、特別な栄誉がある場所。そういう中心により近づくために、社会は競争をします。ヨハネはそういう中心から一番遠い「周縁」にいて、何やら声をあげている。耳障りな声です。だから聞こえないふりをする。しかし、同時に私たちは知っています。自分たちがこのままではもうダメなことを。もうこのままではこの社会が保たないことを。こんなデタラメがまかり通ってはならないことを。しかし、川のこっち側、町のシステムで生きる限り、そのデタラメを変えることはできない。だから、外から響く声が私たちには必要なのです。耳障りで聞きたくない言葉が、必要なのです。ヨハネはそのような声を、一人、荒れ野であげています。
 ヨハネはイエスが洗礼をお受けになったときのことを話しています。イエスが洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のようにイエスに降った、この方が聖霊による洗礼を授ける方だ、と。聖霊による洗礼とは一体何のことなのか。ヨハネによる福音書の中で、イエスが聖霊を授けた出来事として描かれているのは、20:1923です。イエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。ギリシア語では「霊」という字と「息」という字は同じですから、イエスは御自分の聖なる息吹、聖なる霊を与えた、ということになります。これは、今朝の箇所の約3年後、イエスが十字架にかけられて三日目の夕方の出来事です。三日前に彼らはユダヤ人を恐れてイエスを裏切り、見捨てて逃げました。自分のために愛する者を捨てた。そして自分たちにもユダヤ人の手が伸びることを恐れて隠れていました。そこに、復活したイエスがやって来た。イエスは言います。「あなたがたに平和があるように。」これは、「私はあなたの罪を赦す」という意味と言って差し支えないでしょう。イエスは御自分を裏切った者を赦し、聖なる息吹、聖霊によって命を与えたのです。神の霊がどういう人に注がれたのか。立派な信仰者、熱心な求道者、道徳的に立派な人ではなく、イエスを捨てて逃げた人です。イエスよりもわが身が可愛かった人、自分の損得のために他人を見殺しにした人です。
 だから、ヨハネはこのイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだ。イザヤ書第53章が言うとおり、神は私たちの罪をすべてこの一匹の小羊なるイエスに負わせられました。私は、赦されなければ生きられない罪人。しかしその罪を取り除く小羊がおられる。ヨハネはこの方を指さします。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...