2019年12月1日日曜日

ヨハネによる福音書第1章19から29節「主の道をまっすぐにせよ」


 洗礼者ヨハネのイエスの証言です。彼は言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。この言葉は、最初にヨハネが口にして以来、歴史の教会が大切なキリスト告白の言葉として受け継いできた言葉でもあります。讃美歌になり、礼拝でも歌われてきました。
 しかし、洗礼者ヨハネの証しの最初は意表をつくものです。彼は言います。「私はメシアではない。」どうしてそのようなことを言うのか。ヨハネのところにエルサレムのユダヤ人が祭司やレビ人を遣わしてきて「あなたは、どなたですか」と尋ねさせたことに端を発します。エルサレムのユダヤ人というのは人種の問題ということではなくて、やがてイエスやヨハネと対立し、彼らを殺すことになる人びとです。ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました。当時はユダヤ人は洗礼を受けませんでした。異邦人が神を信じたいと言ったときに洗礼を受けさせていた。しかしヨハネはユダヤ人をも洗礼に招きました。神に罪を赦していただこう、神の前に悔い改めよう、そのしるしとして洗礼を受けよう、と。ユダヤ人らはヨハネは注意すべきだと既に考えていたのでしょう。ですから新共同訳の翻訳は少し紳士的すぎるのかもしれません。恐らく「お前は一体誰だ、お前は何者だ」というニュアンスだと思います。それに対して、ヨハネは「私はメシアではない」と答えました。
 それなら一体何だ?エリヤだというのか?違う。それならあの預言者なのか?違う。「エリヤ」というのは旧約に登場する偉大な預言者です。「あの預言者」というのは恐らくモーセ、やはり偉大な預言者です。どちらでもない。私はそうではない。エリヤもモーセも何百年も前の人物です。しかし、やがて神の裁きと救いを前にして再びやってくると信じられていました。ユダヤ人はヨハネに、お前は自分をそういう者だと思っているのかと詰問した。それに対し、ヨハネは、そうではない、私はそういう者ではないと答えました。そうではなくて、私は声、荒れ野で叫ぶ声だと言います。「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と。声というのは、また意表を突く言葉です。叫ぶ人ではなく叫び声です。声には実態がない。もともと見えないですし、声は出した次の瞬間に消えてしまいます。
 私は、自分は声だと言ったヨハネに驚きました。大事なのは「主の道をまっすぐにせよ」というメッセージであって、声そのものではありません。自分それ自体は空疎な声だ、とヨハネは言うのです。
 ある臨床心理士が目黒の女児虐待事件のことを話しているのを聞きました。亡くなった女の子は賢い子でした。5歳で親にごめんなさいという手紙まで残しました。継父はいじめようと考えていたわけでなく、この子は賢いから自分たちとは違う、もっと良いステージに行けるはずだという期待、そして外で良い社会人、良い父を演じたストレスのはけ口にしていたことが裁判で見えたと指摘します。私はその話を聞いて怖くなりました。父である自分を鏡でみたような気になりました。実は何者でもない親の空白を子どもで埋めようとすれば、同じ事が起きます。ヨハネは自分にはイエスの履き物の紐を解く値打ちもないと言います。奴隷以下という意味です。私は何者でもない、奴隷以下、ただの消えゆく声。しかし、その空疎の私が神の小羊を証ししている。この方が世の罪を取り除いてくださる。世の罪です。世のすべての人の罪を取り除く方がここにいると証言しているのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...