2019年11月30日土曜日

2019年11月30日(ダニエル書11〜12)

今日の通読箇所:ユダの手紙、ダニエル書11~12

ダニエル書11~12;
ダニエル書の舞台は捕囚の地、バビロンです。その社会の中の超マイノリティであったユダヤ人たちの物語です。ダニエルと三人の友人らは、異教社会の中で、神を神として生きるという一点においては決して譲らずに、しかしその社会の中で責任を果たして信頼を勝ち得ました。それでも、彼らにとってその生活は、日々が戦いでした。私たちと同じ戦いを、ダニエルたちは知っていたのです。そんなダニエルらを支えたのが、第7章以降の幻のであったのだと思います。神を信じる者は、この世に生きながら、この世を超えた価値を知り、それを信じているのです。
「国が始まって以来、その時までなかった苦難の時が来る。しかし、その時にはあなたの民、かの書物に記録が見出されたすべての者は救われる。地の塵となって眠る人々の中から多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと」(12:1~2)。
今この時のことだけしか私たちには見えません。私たちの視野は狭く、知恵も限られたものです。特に苦難の時はいかばかりか。しかしそれでも神に従い通すことができるとしたら、それは私たちの決心や辛抱強さのためではなく、神が選んでくださったからとしかいいようがないのではないでしょうか。神が私の名をも覚え、ご自分の手元の書に書いてくださっていると私たちは信じてよいのです。
この世には、いろいろな幻があります。そのすべてが命をもたらすわけではありません。「あなたの民の無法者たちも幻を実現しようとして蜂起するが、北の王は進軍し、塁を築き、城壁に囲まれた町を攻略する」(11:14~15)。
片や神が見せた幻があり、他方には無法者の幻があります。どう違うのでしょう。私たちが見ているのは、どちらの幻なのでしょう。ダニエルの幻と無法者の幻には違いがあります。無法者の幻について、聖書は「無法者たちも幻を実現しようとして蜂起する」と言います。無法者たちは、自分でその幻を実現させようとする。しかしダニエルが見た幻は、神が一方的に与えたものでした。ダニエルはただ受けただけ、頂いただけです。
神を神とするということは、自分の力で掴むことではなく、空の手で受け取るということです。それが、「恵み」という言葉の意味です。私たちはこの世界にあって、神の恵みにだけ生かして頂いて、自分で勝ち得たものではなく神に与えられたものの素晴らしさを喜んで、生きていきます。「悟りある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々が義に導いた者たちは星のようにとこしえに光り輝く」(12:3)。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...