2020年1月18日土曜日

2020年1月18日(マタイによる福音書13:31~58)

マタイによる福音書13:31~58;
「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。』」
この章に登場する主イエスのたとえ話は、天の国のたとえ話です。主イエスがその到来を宣言した天の国はどういうものなのか、主イエスがここで私たちに聞かせてくださっています。その最後に、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問われました。『分かりました』と答えたでしたちに主が言われたのが、冒頭の言葉です。天の国が分かったならば、自分の倉から古い物を取り出して新しい物に取り替えるだろう、と言われるのです。
これは44から50節の短い三つの譬えを受けた話であると思います。畑に隠された宝を見つけた人は、持ち物をすべて売り払ってその畑を買う。商人が高価な真珠を見つければ、持ち物を全部売り払ってそれを手に入れる。海に網を下ろしていろいろな魚が獲れたならば、良いものと悪いものを選別して、いらないものは捨ててしまう。どれも、天の国という良いものを前にすれば、古いもの、これまで持っていたもの、古い自分を捨てるのが当然ではないか、ということではないでしょうか。
この主イエスのたとえ話の一つの具体的な事件が、53から58節の、ナザレでの出来事でした。主イエスは故郷ナザレの人々に受け入れてもらえませんでした。「この人は、このような知恵と力をどこから得たのだろうか。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちも皆、私たちのところにいるではないか。」こうして、故郷の人々はイエスに躓いたのです。なぜなら、これまでの自分のイエスを見る枠組みでしかイエスを見ることができなかったからです。イエスにおいて始まっている天の国を受け入れなかったからです。畑に埋まった宝を見つけたのに、自分がこれまで持っていたものが惜しくて、その宝を見過ごしたのです。
私たちは、主イエスと出会って、これまで自分が培ってきたものや経験、こだわりを手放す準備があるのでしょうか。主が告げてくださった天の国は、宝です。かけがえのない真珠です。何よりもおいしい魚です。私たちを生かす幸いであり、神を信じる喜びです。主イエスは私たちの前で天の門を閉じてしまうためではなく、私たちをすっぽり全部、まるごと天の国に入れるために、私たちのところへ来てくださったのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...