2020年1月24日金曜日

2020年1月24日(マタイによる福音書19)

マタイによる福音書19;
主イエスを試そうとするファリサイ派の人からの問い、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されているのでしょうか」に対し、主イエスは聖書に立ち戻って答えておられます。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言って、「こういうわけで、人は父母と離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。・・・。」と創世記第2章の言葉を引用なさいます。しかし、ファリサイ派の人はイエスを試そうとして言いがかりをつけているだけなので、今度は彼らも聖書を引き合いに出して、「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離婚するように命じたのですか」と言いました。これは、そのことで悩んでいたとか傷ついていたとかそういう問いではなく、試すための問いであり、質問のための質問であったことは明らかです。彼らは聖書を読んで聖書から導いた言葉を語っているかのように装っていますが、客観的に見れば、その心が聖書から離れていたことは明白ではないでしょうか。
こういう聖書の読み方は、誰もがついついしてしまうことなのではないか、と思います。自分を正当化するため、他人を否定するため、安心材料にするため。そういうことのために、聖書を材料にしてしまう。そこにあるのは、ただただ「自分」だけであって、神様も隣人も消し去られているのではないかと思います。先の問いで考えれば、夫婦生活に実際に苦しんでいる隣人や、男や女に代表される異なる他者と共に生きるように私たちを作られた神様の御思いなどは、自分の言いたいことの材料にするための聖書には、消えてしまっているのではないでしょうか。
続く子どもへの主イエスの祝福と金持ちの人の出来事は、そのことを私たちに伝えているように思います。主イエスはご自分のもとに連れてこられた子どもたちを御覧になって「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。それに続けて、すぐに、金持ちの人が登場します。彼は小さな頃から旧約の律法をキチンと守って生きてきました。完璧な生き方をしてきた。彼に対し、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」と言われます。その人はそれを聞いて立ち去り、弟子たちは戸惑います。「それでは、誰が救われることができるだろう」と。主イエスはそれを聞いて言われます。「それは人にはできないが、神には何でもできる。」
子どもたちは無力です。今でもそうですが、この時代はさらにそうでしょう。人間の一人としてカウントされていませんでした。しかし、天の国はその無力な子どもたちのものです。金持ちのあの人は、財産というこの世での「祝福」を受け、律法もしっかり守って生きてきました。自分の力に頼ろうと思えば、いくらでも頼れました。だから、完璧になりたかった。主イエスは、自分の力ではなくて神の力に頼り切ってごらんと言われます。
自分の力が大きくなると(そういう自覚が強くなるほどに)、私たちの世界からは他人が消えます。自分のための隣人愛になってしまいます。しかし主イエスはそうではありませんでした。全財産どころかご自分の命まで私たちに下さいました。このお方に、私たちの言い分や願望の代弁者ではなく、神様の御言葉である聖書のメッセージがあますところなく現れているのです。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...