2020年1月25日土曜日

2020年1月25日(マタイによる福音書20)

マタイによる福音書20;
「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
主イエスがこのようにご自分の十字架と復活について弟子たちに予告したのは、もうこれで三度目です。それぞれの前後関係を振り返ってみると、三度とも同じモチーフが登場していることに気づきます。
今回の三度目では、主イエスが十字架と復活の話をしたすぐ後に、ヤコブとヨハネの母が息子たちを引き連れてイエスのもとにやって来て言います。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」と。主イエスはこの願いについて、最後に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり・・・」と指摘しています。偉くなりたい、という弟子たちの欲望の話です。主はこうも問いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」主イエスは十字架の話をしていますが、ヤコブとヨハネと母にはそのことが分かりませんでした。主イエスにとってご自分の右と左に座るとは、イエスと共に十字架につけられるということに他ならないのです。
二度目の十字架と復活の話の後には、弟子たちは「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねています。ここでもやはり偉さの論争が起こっている。それに対して主イエスは「自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」と答えます。そして、初めての十字架と復活の予告の時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。主イエスはペトロに「あなたは私の邪魔をする者だ」言い、さらに弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。
こうして見ると、イエスの十字架と復活の予告には、それを打ち消す弟子たちの醜態がセットになっています。偉くなりたい弟子たちの願望と、イエスの十字架は、水と油のような関係です。そして、イエスの十字架を否定すると共に、自分が十字架を負うことも「とんでもないことです」とならざるを得ないのです。それが私たちの実態です。
そんな私たちは、ちょうど、道端に座っていた二人の盲人です。信仰の目が見えていません。しかし、主イエスは「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と訴える者たちを深く憐れみ、その目に触れて見えるようにしてくださいました。この「主よ、私たちを憐れんでください」は、古来悔い改めの祈りの言葉として教会で大切にされてきました。主の十字架を「とんでもない」と言い、自分の十字架を負って主に従おうとしない私たちを憐れみ、罪を赦し、この目が見えるようにしてくださるのは、ただキリストだけなのです。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...